無機質なテープ音声が辺野古到着を告げる。一人の男性が降車ボタンを押した。
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目次
・街が連なる東海岸
往路の120番は恩納村をはじめとした西海岸のリゾート地帯を走ってゆくが、これから復路で乗る77番は主に東海岸を辿っていく。東海岸には目立ったリゾートが少ないが、代わりに沖縄市、うるま市といった中都市に、普天間基地や名護市辺野古のキャンプ・シュワブをはじめとした、米軍基地も連なっている。人口も西海岸より多く、従って120番は1時間に1本だが、77番は1時間に1~2本と本数もやや多い。しかし77番は120番と違って那覇空港までは行かず、那覇バスターミナルで終点となる。同じ那覇と名護を結ぶ120番と77番とでどういった違いがあるのだろう。
名護バスターミナルにおける77番の出発は「5番ホーム」。この呼び方からしても鉄道駅のような雰囲気を感じる。最も待合室に近い1番は111番・117番の沖縄自動車道経由の高速バスで、5番ホームは最も遠い。77番は西海岸に位置する名護市街を出るといきなり峠を越えるため、市街地区間が短い。小規模とはいえ市街地が連続する65・66番本部半島線や、国頭村方面へ向かう67番辺士名(へんとな)線の方がまだ利用が多いと思われ、77番は隅に追いやられてしまっているようだ。その実態を示しているかのようで、16:20発の乗客は僕とO君の2名だけ。77番は本数こそ多いが、利用の主眼は沖縄市・うるま市あたりの需要に合わせたもののようで、名護における重要度はさほどでもないらしい。
16:20、名護バスターミナル発。沖縄バス77系統、牧志経由那覇バスターミナル行き。
・辺野古を行く
名護バスターミナルを出た時こそ貸し切りだったが、名護市街をしばらく走るうちに数人の乗客を乗せた。名護市街の南端にあたる「世冨慶(よふけ)」を出ると、120番がたどる国道58号から分かれ、西海岸と東海岸を隔てる峠道に入っていく。「第二世冨慶」から峠を越えた「二見入口」バス停までは8分を要し、この間に途中停留所はない。それほど険しい峠なのだ。
その峠を抜けると、今や日本人なら誰でも知っているほど有名になってしまった辺野古地区に至る。名護市街とは先述の峠で隔てられており、市街地の連続性はない。むしろ隣の久志(くし)地区を過ぎ、宜野座(ぎのざ)村、金武(きん)町、そしてうるま市に至る方へ市街が連続しているような印象を受ける。従って、名護市街には「あの辺野古がある街」といった空気はまるでないし、当然辺野古にもひんぷんガジュマルに代表される名護市街の空気はなかった。訪れるまで窺い知れなかったことだ。
辺野古の入り口にあたる、その名も「第二ゲイト」バス停の目の前には、あのキャンプ・シュワブ米軍基地のゲートがあった。これまでに見た米軍基地のゲートは、少々奥に入った守衛所にこそ兵士がいるものの、公道に面したところは無人という基地が多かったように思うが、さすがにキャンプ・シュワブのゲートは物々しい雰囲気に包まれて・・・いるわけではなかった。立哨の兵士が数人いるくらいで、厳戒態勢だの抗議の座り込みだのという空気はなかったのは、正直意外だった。
考えてみれば、この普天間基地移設問題が降って湧くまで、辺野古はさほど大きくもない米軍基地があるだけの、ごく普通の集落だった。だから、当然なんでもない時のほうがよっぽど多いわけで、テレビで見る抗議デモや座り込みといったシーンが常時展開されているわけではない。それ以前に、辺野古はごく普通の生活の場。その視点がこうしてバスで訪れるまですっぽりと抜け落ちていたのは、迂闊だったとしか言いようがない。
ただ一つ「それらしい」シーンがあったとすれば、明らかに地元の人ではないような肌の白い男性が、名護市街で買ったと思しき買い物袋を提げ、辺野古バス停で降りていったことくらい。おそらくは、何かしらの活動に備え、辺野古から名護へ物資の買い出しに出かけたのだろう。辺野古にはコンビニはあるが、スーパーマーケットの類はない。
・人もバスも雨で遅れる
辺野古を過ぎ、宜野座村に入ったあたりで雨が降ってきた。部活帰りの時間にあたり、高校生が乗り込んでくるものの、彼らは一様に傘はおろか、折りたたみ傘すら持っていない。亜熱帯に位置する沖縄の雨はスコールのような通り雨が多く、使うかどうかわからない傘を持ち歩くよりは、多少雨宿りをしてやりすごすのが県民性なんだとか。その光景を目の当たりにして納得。まあ、こういった行動がウチナータイムの概念に繋がっているんだろう。「雨が降って遅れる」のはみんな同じだし、そしてバスも例外ではない。名護バスターミナルを出たときは定刻だったが、うるま市石川地区にさしかかったあたりで、雨も加わって渋滞となり、だんだん遅れ始めてきた。
うるま市は旧石川市・具志川(ぐしかわ)市・中頭(なかがみ)郡与那城(よなしろ)町・勝連(かつれん)町の2市2町2005年に合併して誕生した。平成の大合併において、一島一自治体となっているところが多かったこともあり、沖縄県はあまり合併が多くなかったものの、本島では南城(なんじょう)市(※2006年、島尻郡佐敷町・知念村・玉城村・大里村が合併して発足)と並ぶ大型合併となった。那覇市、沖縄市に次ぐ沖縄県第3位となる人口12万を擁する。ちなみに、「うるま」とは「ウル(=サンゴ)マ(=島)、「サンゴの島」という意味合いの、沖縄本島を指す雅名。こういった地域性を出しつつ、統一感のあることばを選んだ新市名はなかなかなく、いいネーミングだと思う。「沖縄美ら海水族館」といい、沖縄はネーミングセンスが秀逸だ。
名護から1時間10分を経て、77番も石川のあたりから乗降とも活発になってくる。名護から乗り通してきた人が降りたり、市内線のように2~3停留所だけ乗って降りる人がいたり。傘を持たない沖縄県民とはいえ、雨が降ると乗降がもたつくのは事実のようで、雨と渋滞が重なって遅れが増していく。しかし、この辺まで来ると77番以外にも同じ経路をたどる別系統が束になってきて、1時間1~2本の77番以外にも使えるバスは来るので、あまり遅れは気にならないよう。もっとも、人もバスも遅れているのは同じだから、偶々タイミングが合っているだけなのかもしれないが・・・。
米軍基地華やかりしころの繁栄ぶりを物語る、「琉映前」「石川市場前」といった名前のバス停が続く。しかし「琉映」なる映画館どころか、今の石川には映画館自体がなく、石川市場は県営住宅に姿を変えており、名護と同じような中心街の変容が起こっている。もっとも、この2つのバス停はそれなりに乗降があり、今でも中心性が衰えたわけではないようだ。その施設そのものがなくなってもバス停や駅には名前が残るといったことは珍しくなく、東京でも東急東横線学芸大学・都立大学駅、西武新宿線都立家政駅といった例があるのは有名だ(3駅ともその施設は現存しない)。今でも石川では「琉映前」「石川市場前」といえば、中心街として名が通るのだろう。
うるま市を抜けると沖縄市に入る。もっとも、「沖縄市」ではあまりにぼやけた地名でしかないため、「コザ」といったほうが通りがよい。「コザ」とは、今のコザの中心街の地名である「胡屋(ごや)」と「古謝(こじゃ)」が混同されて命名されたといわれる、米軍「キャンプ・コザ」に由来する。そのため漢字がない。越来(ごえく)村→1956年の米軍施政下にコザ村と改称→同年市制施行しコザ市となる→沖縄返還後の1974年に隣の美里村と合併し「沖縄市」が発足。世にも珍しいカタカナ市名は消滅してしまったものの、現在でも「コザ」といえば沖縄市街の名として通り、道路標識にもコザと書かれる場合は多い。現在の沖縄市は人口14万人を数える、沖縄県第二の都市に成長した。
地名の由来が米軍キャンプであるように、コザは米軍基地前の街として大いに栄えた。現在は廃業してしまったが、米軍需要を当て込み、「京都観光ホテル」などというホテルもあったそうだ(もちろん、このホテルとKYOTOは一切関係ない)。第一線で戦う兵士が、限られた休暇をコザの街で過ごすのだから、その当時の消費と言ったら並大抵の勢いではなかったのは想像に難くない。彼らはわずかな休みとそこそこの金を持ってコザの街に繰り出し、有り体に言えば酒と女と・・・ドラッグに手を出した者もいただろう・・・精気を養って、再び第一線に戻っていく。その舞台がかつてのコザだった。
現在のコザは曲がりくねった路地裏の妖しい雰囲気といい、石川以上に米軍基地華やかりしころの面影を残すものの、中心市街は残念ながら活気がない。それでも建物の密度はいまだ濃く、中心街の「コザ十字路」や「胡屋」では、バスの乗降も非常に活発だ。ビルの外壁をまるごとキャンバスに見立てたアートが目立つが、これがストリートアートの一種として観光資源になりつつあるらしい。
コザまで来ると77番以外に4~5系統が束になり、バスの本数は名護と比較にならないほど多くなるものの、それに伴って「乗客の目的地に行かない」バスも増えてくる。市街区間に入ってもなお前乗り前降りのため、降りる乗客がいる場合は運転士が車外スピーカーで「降りる方おられますのでご乗車の方少々お待ちください」などとアナウンスする。しかし気になるのは、待っている乗客が「伊佐とまりますか」「このバス普天間行きますか」などと、運転手に経由地を訪ねることが非常に多い点。これについては、次の記事で明らかにしたい。
・ついに30分遅れ
コザ市街を抜けると、目指す宜野湾市の宇地泊(うちどまり)バス停はもうすぐ。本島中部の消費の中心となりつつあるイオンモール沖縄ライカム(「ライカム」=RYukyu COMmand headquarters=琉球米軍司令部がこの地に置かれていたのが由来。コザと同じく米軍起源の地名)や、日本初のロードサイド型ショッピングモールとして知られる「プラザハウス・ショッピングセンター」が窓辺に広がる。沖縄に展開するアメリカのハンバーガーチェーン、「A&W」の1号店(沖縄進出はマクドナルドの銀座1号店より5年早い1963年)もこの並びにある。宜野湾市の伊佐(いさ)で西海岸をたどってきた国道58号と330号が合流し、従って77番と120番も伊佐から那覇までは同じ経路を辿る。
そして、これだけロードサイド店舗が集積する国道330号・58号は渋滞も今までで一番激しく、宇地泊バス停に着いた時には30分遅れになっていた。定刻であれば、16:20に名護を出て2時間25分・107停留所を経て、18:45に着いていたはずであるが、到着したのは19:15。約3時間、雨と闇で景色が見えず、渋滞にはまりながらワンステップバスのシートに座り続けるのは、普通列車の旅に慣れているはずの自分であっても、なかなかしんどいものがあった。
街々を縫って走り、乗客も多いからこそこうして遅延しやすいのが77番なわけであるが、120番と違って空港に行かないのも、この遅延しやすいのが原因だろう。77番の経路は沖縄自動車道と比較的近接しており、77番よりもよっぽど速くて正確な高速経由のエアポートバスで代替可能なため、77番を空港に伸ばす理由がない。
反対に、120番の経路は沖縄自動車道から遠く、人口も少ないのでエアポートバス単体では成立しづらいことから、集落を縫って走る国道58号経由のバスに空港連絡の機能も兼ねさせているのだろう。往路での120番の遅延も10分に留まっており、77番よりも定時性は高いといえる。
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バスを降りると、雨は上がっていた。やはり通り雨だったようだ。くたびれてバスから降りた僕とO君を、念願の「A&W」牧港店が迎えてくれた。店に漂う空気は、いかにもアメリカのロードサイドのそれだった。
「トイ・ストーリーのピザ・プラネットみたいだ・・・」
(つづく)