九州・沖縄

【沖縄】西表島、波照間島、与那国島…さいはての島・八重山への旅立ち──ANA89便:羽田─石垣線 #67

八重山やえやま諸島。石垣島を中心とした、東京から最も離れた離島群である。その主たる石垣島は、東京から約2,000km、那覇から約400km、台湾まで約250kmに位置する。日本本土から最も離れた、まさに「さいはての島」である。

さいはての島・八重山

▲Google Map より。八重山(青丸印)は上海よりも遠い

東京から石垣島までは約2,000km。東京から中国・上海まで約1,800km、北京まで約2,100km、韓国・ソウルまで約1,100km、ロシア・ウラジオストクまで約1,100kmなのと比較すると、地元の人々が「八重山やいま」と呼ぶこの島々が、いかに本土から離れているかがわかろうかというもの。東京どころか、県庁所在地・那覇より台湾の方が近い。それだけ離れているのが、八重山という島々なのである。繰り返すが、上海より遠い。

与那国よなぐに島の西崎いりざきは日本最西端の地として知られ、東京までの距離は2,000kmを優に超える。条件が良ければ、洋々たる海の彼方に台湾が見渡せるという。島国・日本の陸上に居ながらにして、他国の領土が見通せるところというのは、極めて珍しいと言える。

現在の八重山諸島の主たる産業は、言わずもがな観光である。しかし、それだけ遠隔の地である八重山は、ほかのどこにもない、沖縄本島ともまた異なる独自の文化を育み、そして遠隔の地ゆえの過酷な歴史を歩んできた島でもある。八重山が生んだスター・BEGINの歌に唄われるような、長閑で牧歌的な平和の島となったのは、ここ最近の話に過ぎない。平和の島となった八重山を訪れるからには、そうした歴史にも思いを馳せよう。

▲与那国島に残る「久部良バリ」。訪れる観光客は少なく、今もひっそりとした雰囲気が漂う

八重山を語る上で外せないのが、苛烈な人頭税にんとうぜいの徴収に苦しめられた過去である。かつての八重山は琉球王国の支配が及ばない地であったものの、1500年頃に波照間はてるま島出身のオヤケアカハチと呼ばれた盟主が討ち取られた結果、琉球の支配下に入った。その後、1609年には琉球が薩摩藩による侵略を受け、八重山は薩摩に支配される琉球に支配される属島という、二重の支配を受ける底辺となってしまった。「辺境の島」を象徴するエピソードと言える。八重山が「沖縄本島に対する辺境」となったのは、それからの出来事に過ぎない。琉球の配下に入ってから、その琉球が島津の配下となるまでは、たった100年ほどしか経っていない。

こうした中、琉球が薩摩への税の支払いのため、属島への課税を強めた結果、薩摩侵攻後の1637年から1903年までの長きにわたり存続したのが人頭税である。人頭税とは、読んで字の如く「人の頭に課される税」であり、15歳以上50歳までの島民に等しく課された。その割合は8公2民、最高87%に及ぶ場合もあったというから、いかに苛烈なものであったかがわかる。しかも、離島ゆえ水資源が豊富でないなかにコメでの納税を求めたために、水資源が豊富な島へと強制的に移住させたり、粗末な航海術しかないなかで耕作可能な島へと日中だけ向かわせたり(=通耕つうこう)と、その重さだけでなく、生産活動そのものにも困難が伴ったことも、人頭税が島民を苦しめた要因の一つである。

納税の苦しみから逃れるため、妊婦を集めて崖と崖の間を飛ばせ落ちた者を見殺しにする間引きが起こったり(=与那国島『久部良バリ』)、実在が定かでない未知の島への航海に出る者が出たり(=波照間島『南波照間島ぱいぱてぃろーま』伝説)と、今なお人頭税の伝承は、島のあちこちに残っている。

▲八重山諸島を構成する島々。一番右が主島・石垣島

八重山諸島は長らく石垣市・八重山郡竹富町たけとみちょう・八重山郡与那国町よなぐにちょうの3つの自治体で構成されており、平成の大合併を経てもそれは変わらなかった。お隣の宮古諸島が、平成の大合併を機に「宮古島市」としてほぼ統一されたのとは対照的だ。

この自治体区分が概ね地域区分にも合致しており、中心市街地を擁する主島・石垣島で構成される石垣市、その石垣市から短・中距離航路で結ばれる竹富島たけとみじま西表島いりおもてじまなどの離島群で構成される竹富町、そして石垣島からやや離れているため独立性の高い与那国町と、それぞれがまとまりを持っている。

▲今なお昔ながらの集落の姿を残す竹富島。石垣島からの観光客は数多い

この離島同士のまとまりの強さ故か、八重山諸島は離島架橋が殆ど進んでいない。この点も、ほぼ全ての離島が橋で結ばれている宮古諸島とは対照的である。第一、石垣島だけが強いのではないことは、この島々が宮古諸島式に「石垣諸島」とは呼ばれないことからも明らかだ。

その代わり、石垣港と離島を結ぶ航路が極めて発達しており、特に最も多くの往来がある竹富航路(石垣港─竹富東港)は終日30分間隔と、我が国の航路で最頻発の部類に属するほどだ。各離島からの航路が集結し、ひっきりなしにフェリーが発着するユーグレナ石垣港離島ターミナル(通称・離島ターミナル)は、まるで大都市の鉄道駅の頭端式ホームのごとく桟橋が並び、「整列乗車」の列が伸びている。

▲石垣港離島ターミナルにて。西表島・大原港行きの「3番のりば」の前に行列が伸びる様は、大都市圏の櫛形ターミナル駅のよう

また、離島架橋が進んでおらず、自動車の利用は基本的に島内に限られることから、石垣島以外のバス交通はあまり発達していない。バス路線がある島は竹富島・西表島・与那国島に限られ、その他の島は有人島であっても公共交通機関は存在しない。ただ、そうであるからこそ、竹富島・西表島・与那国島のバスたちは、地域に密着した独自の路線を構築しており、三”島”三様の在り方を見せているのが面白い。

今回は、そんな「さいはてのバスたち」の活躍をこの目で確かめるべく、10連休となった2019年のゴールデンウィークを最大限に利用し、4月27日〜5月5日で8泊9日の旅程を組み、4月27日に石垣空港へと降り立った。

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「波照間航路を主軸に旅程を編成」

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