九州・沖縄

【沖縄】県内唯一の鉄道「ゆいレール」と”バスの楽園” #9

目次

 ・「沖縄電気軌道」が生まれ変わったゆいレール

ホテルに荷物を置き、首里城へ向かうべく僕とO君は旭橋駅に向かった。「沖縄県唯一の鉄道」の旅を始めるにあたって、那覇空港からではなく、「沖縄県鉄道発祥の地:旭橋」から乗車する――という、歴史的意義のようなものを感じないではなかった。

前回の記事でも少し触れたが、戦前まで走っていた旧・沖縄県営鉄道は、ゆいレール旭橋駅の向かいにあった旧那覇駅を出発していったん南東へ向かい、嘉手納線は古波蔵から与儀へ大カーブしてゆいレール安里駅付近を通り、牧港・嘉手納方面へ向かっていた。ちょうど名古屋のJR中央本線のように中心市街地の外側を取り囲むような迂回ルートであり、1時間に1本程度と本数も多くなかったため、市内交通としてはあまり機能していなかった。

これに対し、旭橋駅・旧那覇駅よりも海側の通堂(とんどう)を始発とし、旭橋駅・旧那覇駅の目の前を通っていた沖縄電気軌道は、市内交通としての役割が第一であったため、当時の中心市街地を縫うように走った。首里を終点としたのも、現代那覇市の交通の主役たるゆいレールと同じだ。

これら戦前まで走っていた鉄道と、現代の地図を重ね合わせると、以下のようになる。

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赤:沖縄都市モノレールゆいレール)2003年開業 黄:沖縄都市モノレールゆいレール)延伸区間 2020年春開業予定 緑:沖縄電気軌道 1914年開業、1933年廃止 青:沖縄県営鉄道(与那原線・嘉手納線・糸満線) 1922年開業、1945年廃止

Google Map の「マイマップ」機能を利用。尚、各路線は正確な位置を示すものではありません。

こうして見ると、戦前の沖縄県営鉄道および沖縄電気軌道と、現代のゆいレール旭橋駅・旧那覇駅および安里駅の2か所で3線が交わるものの、通る経路がかなり異なっていることがわかる。特に沖縄電気軌道とゆいレールは、共に旭橋から安里を通り首里を目指しているにも関わらず、接しているのは旭橋と安里のみだ。共に市内交通の需要を満たすことを第一にしているのだが、ここまで経路が異なるのは、どういった背景があるのだろうか。

緑の線の沖縄電気軌道は、1914年に首里―大門前(うふじょうのまえ、現在の那覇市久米・東横イン旭橋駅前付近)間が部分開通したのち、1917年に大門前―通堂の全線開通を果たした。県鉄より8年も早く開通した沖縄電気軌道は、沖縄県で初めて走った鉄道であった。しかしながら、バス交通の発達や電力事情の悪化に伴い、1933年には西武門(にしんじょう、現在の沖縄銀行波の上支店付近、同名のバス停が現存)―通堂間の部分廃止を経て、同年中に残部も廃止されてしまう。たった19年しか走らなかった、幻の電車であった。
電車が走った当時の那覇の中心部は、現在の国際通り周辺ではなく、ゆいレールよりも海側にあった。また、港町の那覇と、かつての王都・首里は別の街として捉えられており、事実1954年の合併までは「首里市」という別の市であった。1406年の尚巴志による琉球統一・首里遷都以来、港町那覇と王都首里を行き来する流れは活発で、1451年には尚金福(しょうきんぷく)王が長虹堤(ちょうこうてい)を築いて短絡ルートを整備するなど、その歴史は古い。沖縄電気軌道は、この流れに沿って、1914年に那覇首里を結ぶべく開通した。そして、その役割は、沖縄電気軌道が廃止された1933年に那覇首里を一直線で結ぶ新ルートとして開通した「国際通り」に引き継がれていく。当時は「新県道」と呼ばれていた国際通りに名がつくのは、「アーニー・パイル国際劇場」という映画館が米軍施政下の1948年に開館してからのことだ(現在の『てんぶす那覇』)。戦後、国際通りを中心として那覇は発展を遂げてゆくが、今度は片側一車線しかない国際通りの渋滞が深刻化してしまう。これを受けてさらに時代が下った2003年、渋滞に悩まされない上空を経由して、ゆいレール那覇首里を結んで走り出した。

このように、那覇首里をいかに短く、早く、楽に結ぶかは、琉球王朝以来の課題であったわけだ。

今度は、沖縄電気軌道の経路に注目してみよう。先の図を拡大し、電停と各駅名を追記した図を以下に示す。

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これを見てみると、通堂から泊高橋までは那覇市内路線として中心市街地を寄り道しながらきめ細かく電停が設けられているものの、泊高橋からは電停も減り、一直線に首里を目指していることがわかる。特に坂下~観音堂間は駅間距離が長く、何もなかったであろうことが窺える。

反対に、ゆいレールは現代那覇の中心たる国際通りの西端(県庁前)と東端(牧志)を抑えてから向きを変え、米軍住宅跡を再開発した那覇新都心の玄関口・おもろまちを経由するため、沖縄電気軌道よりも遠回りして首里に至る。

また、首里終点の位置も大きく異なる。沖縄電気軌道は首里城西方の山の麓でプツリと切れている。首里を名乗るにはいかにも中途半端な立地だが、これは当時の電車が首里城の急峻な勾配を登れず、麓で終点とせざるを得なかったことに依ると言われている。首里の手前に勾配を稼ぐためのクランク状の区間があることも、この区間の勾配のきつさを物語っている。

これに対し、勾配に強いゆいレール首里駅は山を登り切った首里城の反対、首里りうぼう等の商業施設や住宅が集積する、東方の汀良(てら)地区に位置する。ゆいレール首里~てだこ浦西間の延伸開通を2019年春に控え、延伸ルート上には石嶺団地などの住宅団地や、西原町琉球大学など、大規模施設が多く存在するが、いずれも那覇都市圏の構成施設だ。那覇首里を飲み込んで、さらに外側へと拡大していったことがよくわかる。

このように、中心市街地の内陸側・国際通りへの移動、および郊外の開発という2つの要素が、建設年代の異なる沖縄電気軌道とゆいレールとの経路の違いをもたらしたと言えるだろう。経路の違いからその事実が浮かび上がってくるのは、実に興味深い。

ゆいレールの真骨頂は「定時性」にあり!

前置きが長くなったが、実際にゆいレールに乗ってみよう。

旭橋駅の有人窓口で路線バス周遊パスについていたゆいレール24時間券を引き換え、券面のQRコードをかざして改札機を開く。ゆいレールは磁気券の取り扱いをやめ、QRコード付きの乗車券と、ICカード・OKICAに統合している。磁気券対応の自動改札機はメンテナンスが大変なので、経費節減を図ったものだろう。

2両編成に2ドアの車両しか来ないため、ホームドアがあるのは全部で4か所だけ。あと1両増結できる設計ではあるが、使わない部分には柵がしてある。もう1両分ホームを延長して2+2の4両編成運転ができるようにしても良かったのではと思うが、その配慮まではなかったようだ。

f:id:stationoffice:20180426004926j:imageコンパクトな駅

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当日は三連休のため臨時ダイヤだった

2003年の開通から15年を経て、海風に晒される那覇ゆえに多少錆が浮いているところはあったものの、全体的には美観を維持していた。

途中駅での折り返しはなく、全列車が那覇空港首里の全線運転であるのもわかりやすい。枝分かれや途中止まりがないというのも、不慣れな旅行客にとってはわかりやすさに繋がる。

待っていると、下り首里行きがやってきた。

f:id:stationoffice:20180426005731j:image赤と黒の車体はシックな印象

f:id:stationoffice:20180426011210j:image首里行きが到着

10分間隔を基準とするが、GWなどの多客期は8分間隔(=60の約数でないので毎時の発車時刻が一定にならない)と、柔軟に増発がなされるあたりも、モノレールならではの機動力がなせる技だ。

那覇空港からやってきた首里行きは、空港からの観光客と、国場川の向かいの住宅地から那覇都心部への乗客で、そこそこ混雑していた。

f:id:stationoffice:20180426011154j:image久茂地川沿いの軌道を行く

次は県庁前。国際通りやリウボウ百貨店に近いため、スーツケースを持った観光客がドヤドヤと降りていく。代わりに、買い物袋を提げた乗客が乗り込む。次の美栄橋はゆいレールでの泊ふ頭最寄駅(徒歩10分)だが乗降は少ない。しかしその次の牧志では国際通りを訪れた観光客が多く乗り込み、米軍住宅跡の再開発地区に大型商業施設が多数立地するおもろまちでも乗降が多かった。浦添方面はバス乗り換えとなる古島では地元客の下車が多く、車内が少し空いた。古島を過ぎて右にカーブすると、ここからは首里への山を登っていく。

f:id:stationoffice:20180426011040j:image勾配をグイグイ登っていく

市立病院前、儀保と進んでいくが、軌道下の建物が段々に建っている様子がよくわかる。このあたりから右奥に首里城が見え始め、コンクリート打ちっぱなしの外壁に沖縄らしい赤瓦を乗せた外観が印象的な沖縄県立芸術大学が迫ってくると、大きく左カーブして現在の終点・首里駅に滑り込む。現在は上り那覇空港行きの2番線しか使っていないため、将来の下りてだこ浦西行きホームとなる1番線に到着する電車はない。

f:id:stationoffice:20180426011907j:image首里駅は上り2番線へ到着

f:id:stationoffice:20180426012024j:image現在の終点・首里駅

f:id:stationoffice:20180426011947j:image石嶺方面への軌道が既に接続されている終端部

f:id:stationoffice:20180426012117j:image折り返し那覇空港行きが首里駅2番線へ到着。首里城正殿の屋根が見える

首里駅から首里城前への沖縄バス【7】【8】首里城下町線の模様は前回記事をご参照いただきたい。

首里城見学ののち首里駅まで戻り、再びゆいレールに揺られた。行きと同じく古島、おもろまち牧志での乗降が目立ち、観光客から地元客まで幅広い利用があった。首里城帰りの観光客は牧志で多く降りていったことから、ゆいレールを利用し首里城国際通りをセットで観光するのが定番の流れになっているようだ。

県庁前で降りた乗客は地元客が目立ち、駅からデッキで繋がるリウボウ百貨店へ吸い込まれて行く流れも太い。久茂地川とリウボウ百貨店に挟まれた狭いスペースに押し込められたかのような県庁前駅はカーブの途中にホームがあり、見通しが効かないこともあって余計に人の密度を高く感じる。地元客の流れに乗って、僕らも県庁前で下車した。

f:id:stationoffice:20180426124051j:image地元客と観光客でごった返す県庁前駅

県庁前駅からは国際通りと反対の方向へ歩き、ビジネス街・松山の真ん中にある定食屋を目指した。首里城観光の模様と合わせ、この辺りは次回にまとめたい。

・夜に空港へ向かう外国人観光客

夜の国際通りをそぞろ歩き、沖縄名物アメリカンステーキを堪能した後、再び21時頃のゆいレール旭橋駅へ向かった。

ホームに立つと、那覇空港からやってきた下り首里行きが到着したところ。荷物を抱えた乗客が立っているのが目立ち、県外から帰ってきた地元客か、夜の便で降り立った観光客が半々といったところか。

奥武山公園(おうのやま―)でのジャイアンツのキャンプのPR広告がラッピングされていて、目を引く。モノレールは都市の上空を縫うように走るだけに、乗客はもちろん、道を歩いていても、目立つラッピング広告が施されたモノレールは実に目立つ。

f:id:stationoffice:20180427112634j:image街中でも目立つジャイアンツラッピングモノレール。空港発は夜でも混雑する

上り那覇空港行きは空いてはいたが、スーツケースを抱えた外国人観光客が目立った。21時過ぎともなると国内線はほぼ終了していることから、これから出発する便となると、やはり長距離の飛行となる国際線の乗客であろう。長距離のフライトに備えてか、座席で寝入っている乗客が多い。モノレールの運行時間帯は深夜出発の国際線にも対応可能であり、外国人観光客にとっても全てが空港まで行くモノレールはわかりやすく、頼りにされている様子が窺えた。

さて、こんな時間にモノレールに乗っているのは、旅先でスーパーに寄るのを旅のお約束としているからだ。こうしたスーパーは都心部に少なく、若干離れた郊外へ向かう必要がある。沖縄ではメジャーなスーパーマーケットチェーン、かねひでの壺川店へ向かうべく、旭橋から1つ空港寄りの壺川で下車。スーパーの模様は次回にまとめる。

壺川駅からかねひでまでは数分歩いた。壺川駅前は小さなロータリーになっており、那覇バスターミナルがすぐ近くなのでバスの乗り入れこそないものの、タクシーが数台待機していた。モノレールは壺川駅の南側で空港方面へと逸れていくため、壺川駅の真下から本島南部へ向かう国道329号への中継地点になっているのかもしれない。

f:id:stationoffice:20180427112804j:image小禄方面への帰宅客と国際線出発の航空客が入り混じる夜のモノレール

f:id:stationoffice:20180427112826j:imageモノレール通勤が前提の高層マンションが立ち並ぶ壺川駅

・モノレール+バスのさらなる連携強化を!

1日かけて那覇の街をゆいレールで訪ね歩いたが、痛感したのはやはり道路渋滞に惑わされないモノレールの速さと定時性の高さだ。

例えば、国際通り西端の県庁前から東端の牧志まで、モノレールなら僅か2駅・4分で走ってしまうが、バスだとモノレールよりも頻繁には来るが12~15分ほど要する。モノレール開業以前は首里城から那覇都心まで30分を要したというから、モノレール開業で駅から首里城までの徒歩の時間を含めてなお半分に短縮されたことになる。道路渋滞の影響を受けないモノレールは、それだけでバスよりも速く走れるのだ。

さらに、バスだと「時刻通りには来たが、目的地まで時刻通りに走るとは限らない」ことが多々あるのに対し、モノレールではその不安が全くないことも、モノレールの大きなメリットだ。「乗ったはいいが、いつ着くのかわからない」中で乗り続けるのは、乗客にとってはストレスでしかない。

面で広がる街を1本のモノレール線ではネットワークしきれない以上、速達性・定時性に優れるモノレールと、道路さえあれば走れる機動力に優れるバスが連携してこそ、利便性の高い公共交通ネットワークが形成できる。しかし、残念ながら今の那覇はモノレールとバスの独立性がまだまだ高く、連携が進んでいるとは言い難い。

モノレール開業当初こそおもろまち駅前広場を活用したモノレール・バスの連携が模索されたが、結局おもろまち折り返しのバスは減少傾向にある。これは、そもそもの運賃制度がモノレール・バス乗継を前提としておらず、乗り継ぐと初乗り運賃が2回かかって割高になる上に、時短効果が10分程度とそこまで際立たないせいだ。そのため、歩行者が多い上に自動車の交通量も多い国際通りに、乗客を数人しか乗せていないバスが集中するという結果になっている。

f:id:stationoffice:20180427113306j:image夜になっても人波が絶えない片側一車線の国際通り牧志経由の定時運行は難しい

これを解決するには新潟市の事例が参考になる。那覇と同様に各地からのバスが都心部に集中し、空のバスが数珠繋がりになっていた新潟市は、都心部を基幹系統に集約し、数か所の乗継地点で支線へと乗り継ぐ方式に2015年に移行した。これによって、バスの数珠つながりを解消してスピードアップにつながったばかりでなく、効率化した余力を支線に振り向け、支線を増発することにもつながった。積雪時の乗り継ぎの寒さ等、雪国ならではの課題もあるものの、ICカード乗車券の導入によって乗り継いでも運賃を通算することが容易になり、まずまずの滑り出しを見せている。併せて、新潟駅だけでなく、中心市街地の外延にあたる白山駅亀田駅でもJR乗り継ぎの利便性を高めたことで、「いつ着くかわからないバスに乗り続ける」スタイルから、「市街地の近くまで電車で行き、そこから市街地へのバスに乗り継ぐ」スタイルへの移行を促し、目的に合った交通モードを利用者が選択できるようになった。

新潟市の場合は、バスは新潟交通、電車はJRに事業者が集約されていたことで、利害関係の調整もやりやすかったものと思われるが、「都心部ゆいレール・郊外の乗継地点からはバス」という乗り継ぎ前提の仕組みに、那覇も移行すべき時期ではないか。既にゆいレールとバス4社でOKICAの導入を済ませているため、乗り継ぎ割引のシステム構築は一からしなくてもよいし、赤嶺駅おもろまち駅、延伸区間の終点にあたるてだこ浦西駅にはバスターミナルが設置されているため、ハードの整備もあらかた終わっている。

課題としては、市内線こそ那覇バスにほぼ集約されているものの、市外線は琉球バス交通那覇バス・沖縄バス・東陽バスの4社が並立しており、利害関係者が多いことだ。

もっとも、近年はOKICA導入や共通フリーパスの発売などを通して、協調関係を構築しつつある。OKICAは地方ICカードにしては多機能な部類で、モノレール・バスの定期券を最大3社3路線まで搭載できる。バス・モノレール・バスといった定期券も一枚にできるため、乗り継ぎの負担を軽減しているのだ。

それでも、近年のバス運転士の不足や、国際通りに飽和するバスの削減による渋滞の緩和など、4社共通して乗り越えなければならない課題が多いのも確か。

f:id:stationoffice:20180427113958j:image夜の那覇BTで発車を待つ90番具志川行き。那覇BT発の最終は23時過ぎと、本土の電車に引けを取らない

f:id:stationoffice:20180427114014j:image実証実験の継続が決まった那覇〜コザ間の急行バス。市外線を運行する3社が力を合わせる

これを踏まえての自分の考えは、沖縄編のまとめとなる第10回にまとめることとしたい。

(つづく)