九州・沖縄

【沖縄】遥かなる”果てうるま”への旅路──安栄観光波照間島航路 #74

【4日目】石垣港離島ターミナル8:00発─(安栄観光波照間島航路1便・波照間港行き)─波照間港9:40着…(波照間島内観光)…波照間港17:20発─(安栄観光波照間島航路3便・石垣港行き)─石垣港離島ターミナル19:00着


日本最南端”ぱてぃろーま”へ

波照間島とは、沖縄県八重山郡竹富町に属し、石垣島から約50km離れた、八重山諸島で最も南に位置する、人口約500名の離島である。「有人島日本最南端の島」として知られ、北半球では見られない南十字星が観測できる島としても有名である。

琉球語で波照間は「ぱてぃろーま」と読み、ぱてぃ=果て、ろーま=うるま(『サンゴの島』という沖縄県内の島に対する雅称。『うるま市』など)という意味合いを持つ。波照間島から真南へ向かってももう島はなく、台湾沖(といっても台湾島にほど近い)の緑島か蘭嶼、はるかフィリピンのバタン諸島、その先はもう主島のルソン島である。つまり、琉球の圏域のなかでは最果ての部類であったというわけだ。

日本最南端の島として名高い沖ノ鳥島(東京都小笠原村、小笠原諸島)は無人島であり、一般人が上陸することはできない。現在小笠原諸島で一般人が上陸可能な南限は、主島である父島から南へ50km、東京から約1,000kmの母島であるが、沖ノ鳥島はその母島から900kmも離れ、小笠原諸島内で最寄りの南硫黄島でも700kmも離れた、文字通り絶海の孤島である。ちなみに、沖ノ鳥島から沖縄本島へは約1,000km、沖縄県内でも絶海の孤島として知られる南大東島へも約700km。沖ノ鳥島は小笠原諸島に属するとはいえ、父島や南硫黄島への距離と、沖縄本島や南大東島への距離は、殆ど変わらないのである。

波照間島のそういった厳しい環境が豪傑を生んだということなのか、当時「大平山」と呼ばれた八重山全域を率いたオヤケアカハチや、オヤケアカハチ亡き後琉球の配下となった八重山を統治した長田大主は、いずれも波照間島の出身である。1500年には、琉球軍として宮古島から八重山へ攻め入った仲宗根豊見親にオヤケアカハチが討ち取られ、この「オヤケアカハチの乱」をもって八重山は琉球の配下となった。

琉球軍から八重山を守ろうとしたオヤケアカハチは今でも八重山、特にその生誕地である波照間島では厚い信仰の対象であり、アカハチの生家跡がいまでも波照間島で保存されており、彼を祀る御嶽も多い。2006年に春夏連続の甲子園出場を成し遂げた沖縄県立八重山商工高等学校(石垣市)の応援にあたっては、日本トランスオーシャン航空(JTA)によって、彼の名を冠した「アカハチ・ドリーム号」なる臨時便が運航されたほどだ。八重山にとってアカハチの名は、今でも勇猛、豪傑のシンボルとなっていることが窺えるエピソードであろう。

1500年代以降、琉球王国の施政が八重山へ及ぶようになると、王府・首里から最も離れた地であったため、八丈島や隠岐島のように、流刑地となったという。さらに西へ先の与那国島が琉球の配下となったのは1600年代のことで、その頃の琉球王国は既に薩摩藩・島津家の配下にあったため、与那国島が琉球王国単独の支配を受けたことはない。

また、琉球(薩摩)入りと同時に、宮古・八重山全域を苦しめた苛烈な人頭税の取り立ては、ここ波照間島でも行われた。人頭税の取り立てから逃れるため、実在しない伝説上の島である「南波照間島(ぱいぱてぃろーま)」への渡航が行われたという記録すらあるほどだ(『南波照間島伝説』)。人頭税の取り立てにやってきた首里王府の船を、波照間島民が奪って南波照間島へ行ってしまったのだという。彼らが目指した南波照間島と比定される島は、先述したような台湾沖かフィリピン沖の島なのか、或いは実在しないのを承知で海に出て海の藻屑となったのかは、定かでない。

20世紀になり人頭税が廃止されたあと、波照間島は製糖工場が立地したこともあって、サトウキビを中心とした農業の島となった。近年まで観光化されなかったため、その素朴な在り方が注目されるようになり、2018年の観光入れ込み数は年間39,000名と、ここ30年間で10倍もの伸びを示している。ただ、それでも竹富島の50万、西表島の30万といった数字に比べると、波照間島のそれはまだまだ少ない。

ともかく、波照間島は、「さいはて」を象徴するようなエピソードに溢れる、冒険とロマンの島でもあるのだ。

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