九州・沖縄

【沖縄】西の果て・与那国島へ飛ぶ”うちなーの翼”に乗って――RAC・琉球エアーコミューター 石垣―与那国線 #75

【8日目】石垣バスターミナル8:30発─(東バス【4】空港線石垣空港行き)─石垣空港9:05着…10:05発─(RAC:琉球エアーコミューター741便・与那国空港行き)─与那国空港10:45着…(海底遺跡観光)…久部良港13:28発─(与那国町生活路線バス祖納行き)─祖納13:51着…(DiDi見学)…祖納16:45発─(与那国町生活路線バス比川周り祖納行き)─久部良港17:13着…(西崎・久部良バリ見学・夕食)…久部良港21:38発─(与那国町生活路線バス祖納行き)─アイランドホテル21:51着

八重山の旅も最後の島となった。クライマックスを飾るのは、やはりこの島と決めていた。そう、日本列島最西端の地として、言わずと知れた与那国島である。

国境の島”ドゥナンチマ”与那国

 

▲日本最西端の与那国島・西崎(いりざき)。一般人が到達可能な極地は、ここと日本最北端・北海道の宗谷岬しかない

与那国島は八重山諸島に属するものの、主島である石垣島からはかなり遠く、約120kmも離れている。与那国島の次に遠い波照間島でも約50kmであり、その間約70kmにわたり島はない。石垣島から宮古島も約120kmなので、与那国島がいかに遠い場所にあるかがわかるだろう。

▲八重山諸島の島々。与那国島だけが離れて位置しているのがわかる

与那国方言では、与那国島のことを「ドゥナン」「ドゥナンチマ」と言う。このほか、ひらがなで「どなん」「どなんじま」との表現も多く見かける。なぜこの表現になったかは諸説あるそうだが、俗説の域を出ないものの「渡難」の字を当てたから、という説もある。あながち俗説と言い切れない気もするが、「与那国」よりは「どなん」の方がよほど現地で目にするし、その意味するところが「渡難」である、というのも自然だと思う。

▲与那国方言のイベントの告知。「ドゥナン」は与那国、「ムヌイ」は言葉、つまり「ドゥナンムヌイ」は「与那国方言」という意味。

そういうわけで、与那国島民は自らを「八重山の一員」とはあまり考えていないようだ。他の八重山の島々が石垣港まで30〜60分程度、波照間島でも1時間40分で結ばれているのに対し、与那国島へは約4時間を要するうえ、週2便しか運航がない。このように他の八重山とは交流自体が乏しいので、平成の大合併の折も、与那国町は他の八重山の自治体と合併することはなかった。

ただ、いくら八重山の一員という自覚がないとはいえ、与那国島の中心集落は「祖納」といい、西表島西部の(かつての)中心集落と同名である。西表島の祖納も与那国島の祖納も長く役所が位置したところで、祖:つまり税を納める場所という意味合いであろう。与那国島には東部の祖納のほか、西部の港町である久部良、そして南部の牧場地帯に位置する比川と、3つの集落がある。

▲与那国島全図。北東部に役場がある中心地の祖納(そない)集落、西部に港町の久部良(くぶら)集落、南部に比川(ひがわ)集落の3集落が存在する。東部から南部にかけての一帯は平地がないため、集落はない

そういう隔絶された地理環境だけあって、与那国島が文献に登場するのは、琉球王国成立後の1522年まで待つことになる。当時の琉球はいわゆる中継貿易によって国力を高めていたところで、その交易の範囲は遠くタイやベトナムなど東南アジア諸国まで及んでいた。そうした航海が盛んになるにつれ、石垣島と台湾のほぼ中央に位置する与那国島が寄港地として注目されるようになり、貿易商人たちが定住するようになったというわけだ。

そして、与那国島を語るにあたっては、台湾との関係は避けて通れないものである。与那国島から台湾東部の花蓮市までは約110kmと、石垣島よりもやや近い。このため、台湾が日本領であった時代は、台湾と日本本土を結ぶ貿易船が与那国に多数寄港し、多くの台湾の物品が小さな島にもたらされた。

▲晴れた日にはこのようにくっきりと台湾が望める(与那国交流館・DiDiにて)

戦後、与那国島はほかの沖縄県内各島と同様、アメリカの統治下に置かれるわけであるが、他の島が物資不足にあえぐ中、この時代の与那国島は台湾からの密貿易船で日夜行き交い、眠らない島と呼ばれるほどの活況を呈したという。人口は12,000人を超え、史上最も多くの人口を敗戦期に記録したという特異さも、この島が台湾に接しているという地理環境があってのものだ。

▲西部の久部良集落を見渡す。戦後の一時期は台湾への密貿易の拠点として、まさに夜も眠らぬ町として繁栄を極めたそうだが、そんな歴史があったとは信じられないほど、今の久部良は静かになっている

しかしながら、1972年の沖縄返還までにそうした流れは衰え、国境貿易の島という側面は無くなった。1975年以降、島の人口は2,000人前後の横ばいで推移しており、往時の6分の1となってしまった。ただ、年々減り続けているということはなく、あくまで横ばいを維持しているため、「過疎に悩む離島」というわけでもないのは、珍しい特徴といえる。

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与那国へのアクセスは航空主体

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