傍流故の冷遇
西鉄貝塚線は2007年の西鉄新宮─津屋崎間の廃止まで「宮地岳線」を名乗った。これは廃線区間にあった宮地岳駅最寄りの宮地嶽神社に因むもので、創建1600年以上の歴史と多数の国宝を収蔵する大社である。その宮地岳神社と博多を結ぶべく、1924年に博多湾鉄道汽船の手によって新博多(現在の地下鉄箱崎線千代県庁口駅付近)─和白間、翌1925年に和白─宮地岳間が開業したのが、貝塚線の端緒である。
宮地岳線を建設した博多湾鉄道汽船(湾鉄)とは、糟屋炭田から産出される石炭を博多港へ運搬するため、1905年に西戸崎─和白─香椎─宇美間25.4kmの「糟屋線」を建設したのを祖業とする。当初はむろん貨物輸送がメインであったが、後に旅客輸送にも力を入れるようになり、和白から分岐して博多の街中へ直結する支線を建設することになった。これが発展したのが宮地岳線、現在の貝塚線である。
糟屋線が国鉄と貨車を直通するため軌間を1,067mm(狭軌)としていたので、宮地岳線も必然的に軌間1,067mmとなった。貨物輸送を行わなかった天神大牟田線と軌間が違うのは、この出自の違いによるものである。
湾鉄の一員であった宮地岳線が西鉄に組み入れられたのは、戦時体制の深度化によって1942年の陸上交通事業調整法が施行され、天神大牟田線を運営していた九州鉄道をはじめとする5社が合併したことによる。この時、新社名が「西日本鉄道(西鉄)」となったことで、宮地岳線も「西鉄宮地岳線」として新たなスタートを切った。その後、更なる戦時体制の激化によって、糟屋炭田の運炭路線であり、宮地岳線の兄貴分的な路線であった糟屋線が1944年に国鉄に買収されて国鉄香椎線となった。この時以来、宮地岳線は他の鉄道との直通を一度もしていない。
戦後の1954年には福岡市街区間の千鳥橋(新博多)─貝塚間が同じ西鉄の運営であった路面電車、福岡市内線に組み入れられるも、1979年には道路渋滞の激化により路面電車が廃止されてしまった。これにより、宮地岳線は福岡市街への接続を失い、市街地のはずれの貝塚駅から郊外に向けて細々と電車が走るだけという、孤立した路線となってしまった。西鉄本体としても、屋台骨となる天神大牟田線の輸送力増強と路面電車の後を継ぐ西鉄バスの拡充に追われ、宮地岳線の改善にまで手が回らなかったという事情もあるだろう。宮地岳線は、博多湾鉄道汽船の市街地直結線として華々しく開業しながらも、その後を継いだ西鉄によって市街地への接続が断たれるという、苦しい状況に追い込まれてしまったのである。
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「復活からの落日」