野を越え山越え、谷越えて
ベンチの先には、ここまでで初となるトンネルが口を開けていた。人道トンネルや道路トンネルに比べると、鉄道トンネルというものは非電化であってもだいぶ大きいということを実感する。踏切で目の前を鉄道車両通ると、存外に大きいということにはっとするが、あの大きさの車両がすっぽりと入るトンネルなのだから、人道トンネルにしては巨大とすら言えるほどだ。
トンネルの下部は石積みだが、上部は煉瓦積みとなっていた。土圧を支える部分だけ煉瓦積みとして耐久性を持たせ、下部はおそらく現地で出た石積みとすることで、経済性をも持たせている。100年以上の時を重ねたトンネルの天井は蒸気機関車の煤煙によるススだらけで、水が染み出しているところもある。煉瓦の色が白っぽく変化しているところもあり、100年という時の長さを実感する。
そしてもう一つ驚くのは、トンネル内に残された木枕木がほとんど劣化していないこと。廃線時に撤去されたのか、それとも遊歩道化の時に撤去されたのかはわからないが、さすがにレールは撤去されていた。しかし、バラストと枕木はほぼそのまま残っており、しかも枕木は踏みしめても全く沈んだりせず、往年の固さをほぼそのまま残しているようだった。トンネル内は地下水が湧き出る場所はあっても雨の影響を受けず、しかも外気や湿気を運んでくる列車も来ないとあっては、劣化する要素に乏しい。そのため、いつまでも当時のままであり続けているのだろう。
そして、トンネル内に照明が一切ないため、カーブにさしかかったトンネル内は全くの暗闇になる。武庫川の渓谷に沿ってトンネルが穿たれているため、このあたりのトンネルはカーブトンネルばかり。すると、抗口からしばらくは直線的に光が入ってきても、ひとたびカーブにさしかかると途端に光が届かなくなり、たちまち暗闇となってしまう。一切の光源がないため、暗順応どころの話ではない。いくら順応しても暗闇は暗闇なのである。これほどの暗闇だとは、予想だにしなかった。
手元のスマホのライトを点灯させたまま、胸ポケットに入れると、両手が自由のまま前を照らすことができる。以後、トンネル区間は足元に気をつけつつ、このやり方で進むことにした。
トンネルを抜けると、カエデの若木が線路端から伸びていた。現役時代、こんなところから生えていてはまず間違いなく列車にぶつかってしまうので、1986年の廃線後に成長したものだろう。廃線から30年以上が経過したということは、若木が人の背丈よりも高くなるほどの時間が経ったということか。中には枕木と枕木の間から生えているような木まであり、何もしなければ廃線跡はこのまま森へ還ってしまうだろう。倒錯した言い方になるが、「廃線跡を廃線跡のまま維持する」には、草刈り、安全投資などなど、それ相応の維持管理が求められるのだ。
なおも進むと、錆び切った速度制限標識が、朽ち果てる時を待っていた。速度制限を示す「60」はともかく、カーブの曲率を示す「R300」は、もはや判読可能なギリギリのレベル。現役時代は白地に黒文字だったはずなので、30年間メンテナンスがなされない状態だと、ここまで風化するのかという驚きと、必要とされなくなった標識が30年もの間建ち続けているという、二つの驚きを覚える。
現代の福知山線は、特急こうのとりや丹波路快速が120km/hで名塩トンネルをぶっ飛ばし、この峠をいとも簡単に越えている。しかし、たった30余年前はこんな細道を60km/hでそろそろと進んでいたかと思うと、隔世の感がある。錆に覆われ、今にも折れてしまいそうなくらい細くて頼りない速度制限標識。しかしこの標識は、ローカル線に過ぎなかった福知山線の記憶を今に伝える、貴重な存在なのかもしれない。
生瀬駅から順に、北山第一トンネル、北山第二トンネル、溝滝尾トンネルと3つのトンネルを抜けると、武田尾駅までの約7kmのうち、3分の2程度を踏破したことになる。そして、溝滝尾トンネルを抜けるとすぐに現れるのが、廃線跡歩きのハイライト、武庫川第二鉄橋だ。列車がこの鉄橋を通らなくなって30年以上が経ち、すっかり赤錆びてしまったものの、その堅牢な構造は現在。現代の鉄橋よりもかなり鋼材が太く、がっしりとした鉄橋だ。また、電車の走行を前提としておらず、架線を張ることを考慮していないためか、トラスの高さが現代の鉄橋に比べるとかなり低い。列車の高さプラスアルファくらいだろうか。
立入禁止時代はともかく、自己責任通行時代は鉄橋脇の作業用通路をハイカー達が通っていたようだが、遊歩道化の際、かつての線路跡に木道が整備された。鉄橋自体が古びているにもかかわらず木道はピカピカで、このコントラストの差が面白い。
先程の速度制限標識は朽ち果てる時を待つかのような錆びつき具合であったが、鉄橋も同じような錆び方をしている。しかし、ここまで立派な木道が整備されたからには、当面の間は橋として機能し続けることが保証された格好だ。仮にこの橋が無くなってしまうと、武庫川第二鉄橋から武田尾駅近くまで橋がないため、廃線跡の通り抜けがほぼできなくなる。今後も廃線跡がハイキングコースとして親しまれるためには、この橋は維持しなくてはならない。だからこそ、ハイカーが歩きやすいよう、木道が整備されたと言える。しかし、速度制限標識は橋のように必要とされるものではない。ただ、撤去しないと危険というほどのものでもないので、変わることなくその場に建ち続けているのだろう。同じように時を重ね、錆びを浮き上がらせているのに、役割の違いによって扱いの違いも出てきてしまうのは、人間社会でも同じことか。
鉄橋の上からは、色づき始めた武庫川の渓谷がとてもよく見渡せた。錆びついた鉄橋を人が歩いている…という、誰が見ても廃線跡とわかる構図なので、しばし足を止めて写真を撮る人も多い。生瀬駅〜武田尾駅の道中、武庫川を渡るのはこの武庫川第二鉄橋ただ一箇所なので、この廃線跡のなかで随一のフォトスポットなのだ。
武庫川第二鉄橋を渡り、すぐに口を開けている長尾山第一トンネルを抜けると、16時を過ぎていた。生瀬駅をスタートしてまもなく2時間が経とうとしている。日が短い秋とあっては日没も近く、こんな山道で日没となっては身の危険を覚えるレベルなので、何も言わずとも足が早まる。
長尾山第一トンネルを抜けると、武庫川の渓谷がやや広がり始める。その広がった谷を利用して桜が植えられた園地が整備されていた。このあたりは「武田尾 桜の園 亦楽山荘」というそうで、
「大阪造幣局の通り抜けの桜や西宮市夙川、甲山周辺の桜の管理指導など、多くの桜に関する事業を手掛け、生涯を桜の研究や保護育成に捧げた笹部新太郎氏が、桜の品種改良や接ぎ木などの研究のために拓いた演習林「亦楽山荘」。笹部氏の没後、長らく放置されていたが、1999年(平成11年)に市民らの力により「桜の園」としてオープンした。」
「ぐるっと神戸」より引用
のだそう。福知山線現役当時からものであろうが、その当時はこんな山中に立ち入る一般人などほぼいなかったであろうし、桜の研究にはもってこいであったのだろう。それが今では、廃線跡が一般人にも解放され、亦楽山荘にもアクセスしやすくなったことで一般人もが楽しめる桜の名所となったのだから、その巡り合わせが面白い。
さらに長尾山第二トンネル、長尾山第三トンネルと立て続けに2つのトンネルを抜ければ、もうまもなく武田尾駅。最後のトンネルを抜ける頃には完全に日没し、山の中だけあって日没も早いことを実感する。長尾山第三トンネルから武田尾駅までは1km足らずで、廃線跡が道路へと転用されている区間もあるため、実質的にはこのあたりがゴール。
武田尾駅まで650mほどを残し、廃線跡は終了となった。ここからは兵庫県道327号切畑道場線に線路跡が取り込まれており、鉄道の面影には乏しい。ルート変更前の武田尾駅はこの県道との合流点近くにあり、ここから10kmほど離れた宝塚市西谷地区(旧川辺郡西谷村、1955年宝塚市へ合併)へと阪急田園バス(旧・西谷自動車。1995年に社名変更)が通じていた。現在でも西谷地区へ向かう阪急田園バスは毎時1〜2本が運行されており、武田尾駅は今も昔も西谷地区への玄関口としての役割が大きい。
この県道は武田尾駅で行き止まりとなっていおり、武田尾駅へ通じる道路はこの県道1本だけ。つまり、武田尾駅へクルマでアクセスしようと思ったら、西谷地区を経由せざるを得ず、宝塚市街や三田、西宮など、周辺からはかなりの回り道になる…というより、武田尾駅自体が生瀬駅以上に何もなく、さっきまで渓谷の只中であったわけで、住宅地は存在しない。1日の乗降人員も約1,100人と、生瀬駅の4分の1。こんな駅でも大阪行きの普通電車が15分間隔で発着するのだから、周囲の渓谷の景色と、都会的な電車の様子にギャップがありすぎて、もはやユーモラスなレベル。
生瀬駅から約2時間半を経て、武田尾駅に到着。駅を越えたところに「武田尾温泉」が湧いているようで、温泉へ向かう客を歓迎するアーチもあるが、なにせ人の気配がない。温泉宿も数件が営業しているだけのようで、とても「温泉街」といえる規模ではない。
やや広がったとはいえ、それでも狭い谷に開かれた駅前広場(?)に、阪急田園バスの乗り場・転回場と、西谷地区住民向けの駐車場が整備されているだけで、コンビニだとか、そんなものは何もない。西谷地区から武田尾駅までクルマで来て、ここで電車に乗り換えれば、大阪・梅田まで1時間足らずで到達できるため、少ないとはいえ通勤・通学の流れもあるのだろう。駅の雰囲気に比して止められた車が多いことが、それを物語っていた。
* * *
福知山線廃線跡は、有馬温泉など著名な観光地にも近く、大阪や神戸からも「ちょっとお出かけ」の感覚で行けるハイキングコースとして丁度いい距離でもあり、人気が出るのも頷ける。
2時間あまりのハイキングのなかで、鉄道に課せられた役割の変化、それに伴う鉄道自体の変化をひしと感じた。商都・大阪と軍港・舞鶴を結ぶ国策遂行のための鉄道であったのが、ニュータウン住民のための鉄道へと変化してゆくにつれ、渓谷の区間がネックとなっていった。この隘路をトンネルでバイパスすることで解決を図ったのであるが、時間短縮と引き換えに、その美しい車窓はトンネルからは見えなくなった。大切なものを置いてきてしまった…とまでは言わないが、たまには旧線を辿り、過去のノスタルジーに想いを馳せるのもまた一興。ただのハイキングとは違った感慨を、きっと得られることだろう。
武田尾駅から再び福知山線に揺られた。やってきた16:42発普通新三田行きは、スタート地点の生瀬駅を僅か6分前、16:36に出た列車。キハ40系2両編成あたりが来てもおかしくない景色であるが、やってきたのは4扉ロングシートの、都会の電車。僕らが2時間半かけて辿り着いた山を僅か6分で貫いてしまう電車に、現代の力強さを感じずにはおれなかった。
(つづく)