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【兵庫】関西の奥座敷・有馬温泉を目指した鉄道たち──神戸電鉄有馬・三田線 #37

「関西の奥座敷」有馬温泉。道後温泉(愛媛県松山市)、いわき湯本温泉(福島県いわき市)とならぶ日本三古泉のひとつにして、太閤秀吉も愛した名湯である。神戸市内に位置しており、神戸はもちろん大阪からも近く、手軽な行楽スポットとしても親しまれている。

当然こうした場所であれば、関東でいえば箱根や熱海がそうであったように、鉄道黎明期から鉄道の計画が持ち上がっていたが、有馬温泉はなかなか鉄道の便に恵まれなかった。現在に至っても有馬温泉は神戸・大阪からの高速バスがアクセスの主役で、唯一通じている鉄道である神戸電鉄(通称『神鉄しんてつ』)有馬・三田ありま・さんだ線は、日陰の存在である。

数々の鉄道計画が持ち上がりながら、神戸電鉄だけが生き残ったのは何故なのか。そのなかで唯一有馬温泉へ通じた鉄道でありながら、アクセスの主役を高速バスへ奪われてしまったのは何故なのか。考えてみれば、妙な話ではある。

生瀬なまぜ駅から武田尾たけだお駅までの福知山線廃線跡、約8kmを歩き通し、棒と成り果てた足を癒すべく、武田尾駅から普通新三田しんさんだ行きに揺られ、福知山線と神戸電鉄有馬・三田線の接続駅、三田駅に降り立った。

有馬温泉を目指した3つの鉄道

有馬温泉は、神戸の背後に控える六甲山を越えた先に位置する。神戸電鉄有馬温泉駅の標高は357mと、六甲山の標高931mの三分の一強の高さにあり、これは神戸電鉄全線で最も高い。しかもこの高さは40km離れた梅田から徐々に上がるのではなく、有馬温泉まであと10kmに迫った大阪平野の突き当たり、宝塚から急に持ち上がる。10,000mで300mを上がる勾配となり、斜度は平均30‰(3%)となる。25‰を超えると急勾配とされる中で、この数字はいかにも険しい。そして、この急勾配の存在が、有馬温泉を目指した数々の鉄道計画に大きな影を落としている。

青:JR福知山線(大阪─新三田) 茶:阪急宝塚線 赤:神戸電鉄有馬・三田線/公園都市線 緑:北神急行電鉄線/神戸市営地下鉄西神・山手線 灰:国鉄有馬線(廃線) 宝塚←→有馬温泉を直線で結ぶ鉄道はついに実現せず、ここの山がいかに険しかったかがわかる。(Google Mapに加筆。なお、各線は正確な位置を示すものではありません。)

前回(第36回)でも述べたように、まずはじめに「有馬口」を名乗る駅を開設したのは阪鶴はんかく鉄道(現・JR福知山線)である。しかし、この有馬口駅とは宝塚を出てすぐの現・生瀬駅のことであり、この駅から有馬温泉までは古来からの有馬街道を10kmほど遡る必要があった。そのため有馬温泉へのアクセスには利用されなかったようで、1898年の駅開設の翌年には現在の駅名に改称されている。追って1907年には国有化され、阪鶴鉄道の経営陣は自社の鉄道を失ってしまう。

「有馬口駅」を開設したものの、阪鶴鉄道は有馬温泉を直接目指したわけではなかったのに対し、れっきとした有馬温泉を最初に目指したのは、意外なことに現在の阪急宝塚線であった。国有化によって阪鶴鉄道を奪われた旧経営陣が国鉄にリベンジをかけるべく、1910年に「箕面有馬電気軌道(箕有電軌みのおありまでんききどう きゆうでんき)」が梅田─宝塚間を開通させた。大阪駅(梅田)からだと尼崎、伊丹、川西を経由して宝塚へ向かうため、シケイン状の経路をたどる福知山線に対し、箕有電軌は梅田から川西まで直線的なルートで結んだ。また、福知山線が通らなかったものの、川西の対岸で栄えていた池田を経由したこと、および電車の機動力を活かして頻発運転に努めたことで、福知山線の乗客は大多数が箕有電軌へと転移した。阪鶴鉄道の旧経営陣にとってみれば、存分に借りを返したことになる。これにより、宝塚までの近距離は箕有電軌、それよりも先の三田・篠山ささやま方面は福知山線と、明確な役割分担がなされるようになった。三田・篠山方面への乗客が、宝塚までわざわざ箕有電軌を使うようなケースもあったというから、その繁盛ぶりが窺えよう。しかし、宝塚から有馬温泉へは急峻な山々に行く手を阻まれたこと、および「有馬温泉が大阪からの日帰り観光地となり、宿泊客が減ってしまうこと」を危惧した当の有馬温泉自体の反対もあり、開業3年後の1913年には延伸を断念。以後、宝塚は恒久的な終点となり、宝塚から有馬温泉へは系列のバスが連絡することとなった。

不本意ながら阪急宝塚線の恒久的な終点となった宝塚。有馬温泉へ到達できなかった阪急は、宝塚に「歌劇」という新たな魅力を創出することになった。

延伸に失敗した箕有電軌の次に有馬温泉を目指し、有馬温泉へ一番乗りを果たしたのは、国鉄有馬線であった。1915年に「有馬鉄道」という私鉄の手で三田─有馬間が開通したが、開通と同時に国に借り上げられ、一足早く国有化された福知山線と一体的に機能した。線内折り返し運転が中心であり、三田での乗り換えが必要ながら、有馬鉄道の開通によって、ようやく大阪と有馬温泉が鉄道で結ばれたわけだ。1919年には借り上げが終了して国有化され、国鉄有馬線となっている。阪鶴鉄道と同じく、国有化によって会社は路線を奪われることとなった。

そして最後に有馬温泉に到達し、唯一現在に至るまで生き残った鉄道が、神戸電鉄有馬・三田線である。国有化によって有馬鉄道を奪われた経営陣がリベンジをかけるべく、1928年に神戸有馬電気鉄道(神有しんゆう電鉄)が、神戸・湊川─有馬温泉(有馬線)、および有馬口─三田(三田線)を一挙に開通させた。三田と有馬だけでなく、神戸と有馬を結ぶ路線と組み合わせることで、国鉄有馬線とは違う役割を担うこととなった。

有馬・三田線は神有電鉄以来の基幹路線。三田発の電車はほとんどが新開地まで直通運転し、途中止まりはごく少ない。

しかし、福知山線・阪急宝塚線の例とは違い、こちらは2路線の並行状態は長く続かなかった。2時間に1本程度の運転であった国鉄有馬線は、開業時から30分間隔程度の高頻度運転を行った神有電鉄に太刀打ちできずに乗客を奪われたこと、および戦時体制の深度化に伴って行楽地へ向かう鉄道が休止・廃止に追い込まれたことが重なり、1943年に国鉄有馬線は営業を休止。既に神有電鉄が代替機能を担っていたこともあり、戦後も復活することはなかった。しかし正式に廃止手続きが取られた記録はなく、今でも休止状態のままなのか、それとも廃止手続きが取られながらも記録に残らなかったのかは判然としない。同じように戦中に休止となり、戦後も復活しなかった国鉄橋場線(岩手県)と同じく、戦争の混乱に巻き込まれ、消えていった国鉄のミステリーとして、有馬線は名高い存在になっている。

戦後、有馬温泉へ向かう唯一の鉄道となった神有電鉄は、三木電気鉄道の合併などによる路線網の拡大に伴って「有馬」を社名に入れる意味合いが薄れたのか、或いは沿線の宅地開発による通勤通学需要がメインとなって湯治客の重要度が下がったのか、1949年に「神戸電気鉄道」へ改称している。前年の1948年には箕有電軌の後身、阪急電鉄の手によって大阪・梅田と有馬温泉を結ぶ急行バス「有馬急行線」が運行を開始しており、箕有電軌発足以来の宿願を果たしている。神有電鉄から「有」の字が取れた裏には、阪急バス有馬急行線の運行開始があるのかもしれないが、真相はわからない。

神戸・新開地をターミナルとする神戸電鉄。昼間でも新開地からは毎時8本の電車が出る

阪鶴鉄道→福知山線を国鉄に奪われた旧経営陣が箕有電軌→阪急宝塚線を興して乗客を奪い返し、有馬鉄道→国鉄有馬線を国鉄に奪われた旧経営陣が神有電鉄→神戸電鉄有馬・三田線を興して乗客を奪い返す…という、有馬温泉を舞台にした「官VS民」の意地のぶつかり合いが起こったさまが、おわかりいただけたことと思う。

国有化によって私鉄を自社ネットワークに取り込んだものの、その恨みは深かったということなのか、国鉄は軒並み後発の私鉄に乗客を奪い返されることとなった。福知山線は1986年のルート変更まで長らく大阪近郊のローカル線に甘んじることとなり、有馬線に至っては戦争とともに姿を消した。しかし、新生JRになってからは福知山線が巻き返しを図り、「JR宝塚線」として再び阪急から乗客を奪い返しているのは、歴史の偶然というべきか、それとも。いずれにせよ、福知山線と阪急宝塚線、神戸電鉄有馬・三田線の関係は、生まれた時から因縁めいた、切っても切れない関係にある。

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急勾配を強力電車で克服した神戸電鉄

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