国策遂行のための鉄道だった福知山線
眼下には武庫川が流れ、対岸の山は色づき始めている。大阪駅から生瀬駅まで電車で30分あまり、駅から約1.5km、徒歩20分と、合計1時間足らずでこの絶景に出会えるとは、思いもよらなかった。しかしまあ、1898年当時の建設技術で、この深山幽谷によく線路を通したものと思う。渓谷に沿って単線分の敷地を確保し、それも勾配を計算しながらほぼ人力でトンネルを掘り、橋を架けて行ったのだから、鉄道建設に賭ける思いの強さが伝わってくる。
福知山線は、大阪と軍港・舞鶴を結ぶべく設立された「阪鶴鉄道」を起源とする。[※2]阪鶴鉄道は1898年に神崎(現・尼崎)─宝塚─有馬口(現・生瀬)を開業、翌1899年に生瀬─福知山南口(現在廃止)間を延伸。1904年には福知山南口─福知山─綾部─新舞鶴(現・東舞鶴)が繋がり、大阪─舞鶴間の直通運転が始まった。1904年といえば日本海・中国・朝鮮を戦場に勃発した日露戦争開戦の年であり、日本海側随一の軍港を結んだ阪鶴鉄道も、軍事輸送に大きく寄与した。
[※2]厳密には1891年に川辺馬車鉄道が尼ヶ崎(後の尼崎港駅、現在廃止)─伊丹間を開業したのを端緒とし、2年後の1893年に蒸機鉄道の摂津鉄道に改組・改築の上で池田(現・川西池田)まで延伸しているが、この時点では東海道本線の短距離支線の域を出ていない。福知山線が幹線に発展するのは、摂津鉄道が1897年に阪鶴鉄道へ路線を売却し、舞鶴方面への延伸が始まってからである。
阪鶴鉄道の建設は、日露戦争という国策遂行のためにも絶対に欠かせないものであり、大阪─舞鶴間の難所のひとつがここ、生瀬─武田尾間であったわけだ。国策の一環として国の威信をかけて建設されただけあって、これほどの深山幽谷であるにもかかわらず、土砂災害や川の増水で長期不通になるようなことは殆どなかったというエピソードからも、構造物の頑丈さが窺えよう。開通から1986年のルート変更に至るまで90年弱、生瀬─武田尾間は、鉄道としての機能を全うし続けた。かつて蒸気機関車が連日通ったトンネルの天井は、ルート変更から30年以上経った今でも、蒸気機関車の煙突から出た煤で真っ黒になっている。その輸送量の多さが伝わってくるかのようだ。
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サンドウィッチとベテランハイカー