無料でも充実、龍ケ崎市歴史民俗資料館
竜ヶ崎駅から徒歩15分、馴柴駅(仮)から徒歩7分で「龍ケ崎市歴史民俗資料館」に着いた。市街地北側の丘陵地を切り開いた場所にあり、平地にある市街地からはやや坂を上る。この坂を上りきると竜ヶ崎ニュータウン中根台・北竜台地区にあたり、まさに台地。利根川沿いの低地と、丘陵上の台地をの境目の傾斜地といったところだ。
お目当ては、こちらに保存・展示されている、「初代竜崎鉄道4号機関車」。資料館の中にあるのかと思いきや、展示場所は県道からも見える位置。
小さなホーム(?)と屋根が据え付けられ、展示環境は良い。いかにもちょこんとした小さな蒸気機関車が、ちょこんとした展示線に、小さく収まっている。
竜崎鉄道の社紋がサイドに描かれており、しばし観察。「竜」の字を、中心点を取り囲むように上下左右に配置したもので、単純明快でわかりやすい。誰がどう見ても「竜ヶ崎の鉄道」であることがわかる。
開業以来、龍ケ崎市街地と常磐線の間を結ぶことに徹し、旅客だけでなく貨物も運び続けてきたという、歴史の厚みを肌で感じる。傍らの説明板を読むと、「廃車後は沖縄県久米島の観光開発のため一旦売却されたが、歴史的価値を認めた龍ケ崎市が発送前に買い戻した」とある。
久米島は沖縄本島から約100km離れた離島で、その名の通り離島にしては珍しい米どころではあったが、南方の離島に多いサトウキビ栽培はもともと盛んではなかった。ただ、戦後の米軍統治時代にサトウキビ栽培への転換が勧められたため、久米島の稲作は現在行われていない。サトウキビ栽培への転換が戦後になったため、サトウキビの積み出しはシュガー・トレイン(サトウキビ積み出し用の鉄道。南大東島のものが有名)でなく、米軍がもたらしたトラックによってなされた。そのため、久米島は有史以来一度も鉄道が走ったことはない。
その久米島に竜崎鉄道の蒸気機関車を持ち込んで、どのような観光開発に役立てようとしたのかは定かでない。蒸気機関車の保守は大変な労力と熟練の技術を必要とする。鉄道の歴史を持たない島に持ち込まれたところで、そう永い活躍はできなかったことだろう。加えて、常に潮風に晒される離島という環境は、鉄でできた蒸気機関車にとっては過酷なものだ。
久米島に引き取られていれば、少しの間は走ることができたかもしれない。それよりも、生まれ育った龍ケ崎で静態保存される方が、4号機関車にとっては幸せだったのではないだろうか。静かに佇む、小さな4号機関車を見ていると、そんな気持ちになった。
さて、歴史民俗資料館の本館へ。さほど大きな資料館ではなかったものの、200円くらいは取られるかと思ったが、なんと驚くことに無料。「無料というと、大したことない展示なんじゃないか」と思ってしまうが、ここに限ってはそんなことはなかった。
先史時代から水の利があり、居住に適した地であった龍ケ崎は、古代の貝塚もよく見つかるそうで、縄文時代の竪穴式住居の展示あり、戦国時代の合戦の展示あり、そして明治以降の産業の展示ありと、ひと通りの歴史を網羅していた。
龍ケ崎が工業地として発展するきっかけをもたらしたのは、やはり1898年の竜崎鉄道の開通であった。展示物のなかには竜崎鉄道の展示もあり、古いホーローの駅名標や、タブレットの展示もあった。
ここを訪れて初めて得た知識としては、「龍ケ崎」という、なかなかインパクトのある地名の由来だ。「龍ケ崎」の名は、古くからここが利根川と小貝川の合流点にあること、また牛久沼、蛇沼などといった湖沼も多かったこと、土地の起伏がさほどでもないこと等々の理由で、湿度が常に高いことが原因で、「竜巻が起きやすい」ことから付いた地名なのだという。逆に言えば、それほど自然環境が厳しい地であったのであり、決して肥沃な、裕福な地ではなかったのだと思う。
そうした歴史を持つ土地にあって、明治以降の殖産興業の時代にあって、製糸業は龍ケ崎にも経済的繁栄をもたらし、昭和のニュータウン開発は龍ケ崎郊外の寒村を市街地に変え、市の人口を3倍以上増加させた。この2つの出来事を通し、龍ケ崎は時代に合わせた繁栄の形を叶えてきた地と言えるのではないかと思う。
農村から工業地へ、工業地から住宅地へと流転してきた歴史を保存する施設として、この歴史民俗資料館は意義を持つ。総合的に見て、龍ケ崎市のみならず、茨城県南の歴史を体系的に理解できる展示であった。小粒であっても学ぶものは多い。こうした資料館は、今後も見つけてはなるべく訪問を重ねたいものと思っている。
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「竜ヶ崎線に乗る学生たち」