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【千葉】”東京ディズニーリゾートを造った二人の男”夢と魔法の王国を日本へ…浦安物語(2)── #81

「次は、舞浜です。ディズニーリゾートラインをご利用のお客様は、お乗り換えです」

京葉線に乗って都県境を越えると、舞浜到着を告げるアナウンスが流れる。「東京ディズニーリゾート、下車駅です」などとは一言も言わないが、誰しもが知る東京ディズニーリゾートへの玄関口である。そうして舞浜駅へ降り立つと、もうそこは夢の世界である。

今回は、敗戦のショックも覚めやらぬ中から「夢と魔法の王国を日本へ!」と不屈の志を抱き、その夢の実現に向けて力を尽くした、二人の男の話を紹介しよう。

OLCを創った男・川﨑千春

東京ディズニーリゾート(TDR)を訪れると、主にパーク外の各所でこのような看板を見かける。

今となっては味わい深いメルヘンチックなフォントだが、これは東京ディズニーランド(TDL)駐車場の利用規約の看板を写したものだ。「東京ディズニーリゾート」とは一言も書いておらず、「株式会社オリエンタルランド」とあるだけだ。

この「株式会社オリエンタルランド」(以下「OLC」とする)なる会社は、東京ディズニーリゾートの運営会社として知られた存在である。しかし、なぜ「ディズニーランド・ジャパン」といったように、ディズニーのデの字も社名に含まれていないのだろうか。

▲「株式会社オリエンタルランド」と「ウォルト・ディズニー・プロダクション」が仲良く並ぶ。この両社の良い関係が、TDR、そして浦安の発展を支えてきた

OLCは、1960年に京成電鉄・三井不動産などの出資により誕生した。その目的は、1962年にから始まった浦安沖の埋立によって生み出される県有地の開発・分譲であり、この中に遊園地の計画は含まれていたものの、当初からディズニーパークの誘致・運営を目当てにしたのではなかった。社名に「ディズニー」が含まれないのは、こうした設立の経緯による。

▲浦安市郷土博物館にて。舞浜地区の造成が終わったばかりの頃。下の部分が今のTDRの部分である

OLCが誕生した1960年といえば、豊饒の海であった浦安沖が公害によって汚染され、漁師町としての浦安の存続に暗雲が立ち込めていた頃だ。(詳細については前回記事を参照のこと→ 【千葉】かつてここは、豊饒の海だった東京ディズニーリゾート開発前史:浦安物語──東京メトロ東西線・JR京葉線 #80 )1958年の「黒い水事件」をきっかけとして、1962年の浦安町漁協の漁業権一部放棄、および中町地区の埋立開始、そして1969年の東西線開通、1970年の舞浜地区埋立完成という、激動の中に生まれた会社であった。

OLCの初代社長は川﨑千春という。当時の京成電鉄の社長を務めていたが、京成電鉄という大企業のトップでありながら、家系に画家が多かったことなどもあり、自身も風流を愛する人物であった。中でもバラの花には並々ならぬ情熱を注いでおり、川﨑自身も趣味とした油絵でバラをよく描いていたらしい。このバラの花が、浦安へディズニーを呼ぶきっかけとなっている。

▲OLC公式サイトより。右の江戸はOLC設立当時の三井不動産社長

1958年、京成電鉄が運営していた谷津遊園(習志野市、京成線谷津駅隣接地。1983年閉園)にバラ園を設けることとなり、そのバラの買い付けのために川﨑自身がアメリカへ渡航。そのついでに1955年にオープンしたばかりの「ディズニーランド(カリフォルニア州アナハイム)」を訪れ、「夢と魔法の王国」ぶりに感激したのであった。1958年といえば、日本はまだまだ戦後復興期の最中である。「この夢と魔法の王国を、日本の子どもたちにも見せてあげたい」と、川﨑は固く決心したのだという。

なお、この時川﨑が訪れた、ロサンゼルス近郊に位置するカリフォルニア州アナハイムの「ディズニーランド」は、世界第一号の元祖パークであり、世界最大規模を誇る「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート(フロリダ州、1971年開園)」とは別物である。

しかし、川﨑は京成電鉄社長として忙しい毎日を過ごしており、OLCの経営にかかりきりというわけにはいかなかった。1960年代の京成電鉄は、本業の京成線運営に関わる事業だけでも、1960年の都営浅草線・京成線の相互直通運転開始および京成線全線にわたる改軌工事、1979年の北総線北初富─小室間の開通と、「線」でしかなかった京成線のネットワークを「面」へと飛躍的に拡大させる、大事業を矢継ぎ早に実行していたからだ。

▲北総線を経由して都心と成田空港を結ぶアクセス特急。北総線は40年近くの歳月を経て、都心と成田空港を結ぶメインラインへと成長した

加えて、この時期の京成電鉄は、1978年の成田空港の開港を控え、京成線京成成田─成田空港(現・東成田)の延伸、特急スカイライナーに充当する初代AE形特急の新造、特急スカイライナーを迎える東京側のターミナル・京成上野駅の改築、ジャンクションとなる京成線青砥駅の高架化・立体交差化、青砥─京成高砂間1.2kmの複々線化と、空港アクセス輸送の受け入れに向けた投資が目白押しであった。

▲青砥─高砂の複々線区間。この1駅の複々線があるからこそ、スムーズな運行が成り立っている

成田空港に関していえば、オリエンタルランド・浦安沖も無関係ではない。1966年に新東京国際空港を現在の成田市三里塚に設置し、1972年の開港を目指すことが決定した。この際、候補地としてオリエンタルランドが分譲する浦安沖も挙げられていたのだ。1962〜1964年に建設大臣を務めた河野一郎は「木更津沖案」を推進していたが、彼は浦安沖案も比較検討していたという。木更津沖案は東京湾横断道路(東京湾アクアライン)の建設が避けられなかったのに対し、浦安沖であればアクセスの面でも問題は少なかったからだ。

しかし、いくら埋立地とはいえ東京都心の目の前であり、 騒音問題の発生が避けられなかったことに加え、羽田空港と近過ぎて航空管制上の難しさが指摘されたこと、そして当時の土木技術では埋立地に高い精度が要求される空港の建設が難しかったことなどから、浦安沖案、および河野が推した木更津沖案は河野の急逝(1965年)もあり、断念されている。

▲成田空港に並ぶ各国からの航空機。成田はいまも日本の空の玄関口

その後、1965年に富里・八街案が内定したのち、現地の激しい反対に遭ったことから、国有地・県有地が多かった成田市三里塚への設置が、1966年に決まった。ただ、その後の反対運動と左翼活動家の妨害行為により、開港は1978年に遅れることとなった。

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TDLを創った男・髙橋政知

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