“花のみち”を歩く
宝塚南口駅近くから、JR宝塚駅まで歩いた。宝塚南口駅前の交差点を過ぎると、すぐに武庫川を渡る宝塚大橋。赤瓦が特徴的な宝塚大劇場を背に、マルーン色の阪急電車がその脇を走り抜けるという、阪急電鉄、そして宝塚を象徴するシーンがここから眺められるため、ポスターなどでこの眺めを見たことがある人もいるだろう。NHK・Eテレ「2355」のおやすみソング「さらば、宝塚」でも、やはりこの宝塚大橋の上での別れが映し出されていた。橋を渡っているとすらりとしたスタイルの美しい女性とすれ違ったが、彼女もやはりタカラジェンヌなのだろうか。
宝塚大橋を渡り、宝塚大劇場に沿って交差点を曲がると、いよいよそこはヅカの世界。阪急宝塚駅前から大劇場まで伸びる「花のみち」を中心に、コロニアル様式の宝塚大劇場に合わせ、沿道のマンションや商店まで、すべてコロニアル様式で揃えられている。ヅカファンであれば、「ここに住みたい!」という人も多かろう。今回は宝塚南口駅から歩いてきたので、いきなり大劇場を目にしてしまったものの、やはり表玄関の阪急宝塚駅から来るべきであったか。阪急宝塚駅から来ていたならば、花のみちに沿って連なる美しい建築のなかを歩くにつれ、観劇のムードが最高潮に高まることであろう。街全体が宝塚ワールドであるかのような景色は、まるで自分までも宝塚の世界に溶け込んでいくかのような、まるで自分がスターになったかのような気分にさせてくれる。
この”花のみち”、道路中央の一段高くなっているところが歩道になっている。関東でいうなら、鎌倉の若宮大路のような構造だ。その法面に桜など花の木が植えられ、木々の間を花々が彩るという、実に美しい歩道であるのだが、宝塚音楽学校の生徒はこの高い部分を歩いてはいけないそうだ。ほかにも、宝塚音楽学校の生徒が阪急電車に乗る際も、たとえどんなに空いていても着席してはいけないとか、宝塚音楽学校生を取り巻く環境は、一種独特のものがある。そうして自分を厳しく律し、夢に向かって邁進するタカラジェンヌの卵たちを、先程の「ルマン」を含め、宝塚の街の人は温かく見守っていることであろう。
そして、こうした”宝塚文化”そのものが、宝塚の街のブランドを確立し、魅力あるまちづくりに寄与していることは、疑いようがない。1910年に箕面有馬電気軌道(箕有電軌。現・阪急宝塚線)が開業し、その4年後には早くも宝塚少女歌劇団の第1回公演がこの地で催されている。それから100年にわたり、宝塚の街は宝塚歌劇団と共に歩んできた。単なる大阪のベッドタウンではなく、逆に大阪、そして全国から宝塚歌劇を目当てに多くの人々がやってくるのが、宝塚という街なのだ。
その過程で、華やかな歌劇団を支えるためにさまざまな店ができ、また歌劇団のイメージに合わせた良質な住宅が整備され、宝塚は「阪神間モダニズム」の拠点として発展を続けていった。宝塚市の人口はほぼ一貫して増え続けており、1970年当時の127,000人が、2015年には225,000人にまで増えている。増加率では三田市の3〜4倍には及ばないが、実数のそれとしては宝塚市の方が多い。これは阪急沿線が開発し尽くされ、駅からバスに乗り換えねばならない距離にまで宅地が拡大していった証拠であるのだが、その拡大に際しても「阪急沿線」の「宝塚市」というイメージはプラスに作用したことだろう。宝塚歌劇団のイメージがそのまま宝塚市のイメージに直結しており、逆に言えば宝塚歌劇団のイメージを守るためにも、良質な街を壊してしまうわけにはいかないのである。
宝塚市と宝塚歌劇団は、これまでの100年と同様、これからの100年にあたっても、二人三脚で歩んでいくことだろう。タカラジェンヌたちが、その輝きを放ち続ける限り。
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大きな阪急、小さなJR