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【千葉】”かつてここは、豊饒の海だった”東京ディズニーリゾート開発前史:浦安物語──東京メトロ東西線・JR京葉線 #80

漁業の町から近代都市へ走る!!

さて、いささか時代がかったこのタイトルは、昭和44年(1969年)3月5日発行の「広報うらやす」69号のもの。この年の3月29日に開通した、営団地下鉄5号線(現・東京メトロ東西線)の開通を祝う広報誌である。当時はまだ東葛飾郡浦安町であり、人口はわずか19,000人ほど。東西線の開通を契機に、浦安はベッドタウンとしての発展を遂げ、1981年に市制施行に至っている。

▲浦安市郷土博物館に展示されている「広報うらやす」

「交通不便だった私たちの町も、一躍便利な町に生まれ変わります」「長い間、漁師町としてのみ栄えた町から、近代都市へ変えて走る地下鉄五号線は、まもなく発車しようとしています」という文言が並ぶこの時の広報うらやすからは、東西線開通への期待感を隠しきれない。

しかし気になるのは、「漁師町としてのみ栄えた町から、近代都市へ変え」という部分。つまり、漁師町であった過去を捨て、東京のベッドタウンとして生まれ変わるのだ、とでも取れるような記述がある。行政が出す広報としてはいささかセンセーショナルな表現であるが、当時の浦安が直面していた状況を鑑みれば、漁師町の近代都市への転換は、まさに危機を打破する希望の星だったのだ。

東葛飾郡浦安村→浦安町→浦安市は、1889年に当代島とうだいじま村、猫実ねこざね村、堀江ほりえ村の3村が合併して誕生したことに端を発する。浦安という地名は、3村合併の後に初代浦安村長・新井甚左衛門が”浦、安かれ”つまり”安穏な水辺であれ”という願いから名付けたものだという。従って、それまで「浦安」という地名は存在しなかったため、現在に至るまで浦安市内に「浦安」とか「新浦安」といった「浦安」がつく住所は存在したことはない。逆に、旧3村の当代島、猫実、堀江はいずれも住所として現在に至るまで存続している。

初代村長が願ったように、東西線開通までの浦安は、江戸前の海産物がよく上がる、豊饒の海に抱かれた漁師町であった。現在でも市川、船橋にまたがる干潟「三番瀬さんばんぜ」があるように、浦安周辺には多くの干潟が広がり、貝類や海藻類の宝庫であった。東京湾の最奥部であるため、追い込み漁も盛んであった。

▲開発前の浦安沖を再現した一角(浦安市郷土博物館)

その浦安に上がった海産物は、新鮮なまま、あるいは佃煮や焼き海苔などに加工され、境川〜新川〜小名木川といった人口河川を経由 し、銀座・日本橋などへと運ばれていった。

▲浦安〜日本橋を最短で結んだ、境川〜新川〜小名木川を経由する水運のルート。約15kmという近さは、東京湾沿いのどの漁師町よりも近いものだった。また、外洋に出る区間がほぼないため、航路が安定していたのも浦安の強みであった。

「貝の殻剥きができない女性は嫁の貰い手がない」と言われるほどに、貝の殻剥き・加工は重要な産業のひとつであった。剥かれた貝の身は佃煮や串焼きに加工され、貝殻は砕かれて砂利代わりに道路へ敷き詰められた。

▲漁民の生活を再現している(旧大塚家住宅)

舗装道路が一般的でない頃、低湿地であった浦安の道はぬかるみやすく、砂地故にすぐに沈んでしまうことから、手入れが欠かせなかった。貝の殻は吸水性もあり、大量に発生する貝殻は、道路に敷き詰めるのにぴったりの素材だった。この頃の浦安を歩けば、貝殻を踏みしめる音が聞こえるのが当たり前の景色だっただろう。

また、浦安で上がる海産物は、東京に隣接する場所で上がることから新鮮なまま届けられるため、銀座・日本橋に限らず、広く関東一円へ行商人が運んでいった。遠くは川越や五日市(あきる野市)などへも運んだというから、こうした海から離れた地域では、浦安からやってくる行商は重宝されたことだろう。

豊かな海の恵みを存分に受ける漁師町としての暮らしが、江戸の発展と共に400年にわたり、昭和に入ってもなお続いた。しかし、1958年に発生した「黒い水事件」により、漁師町としての存続が難しくなってしまう。工場排水による水質汚濁が原因で浦安の漁業資源は大きく失われ、1962年には漁業権一部放棄に至っている。1964年からは補償を元手にした埋立事業が始まり、工事が段階的に進んだ結果、1970年までに現在の京葉線以北の埋め立てが完了している。その流れの中、1969年に開通したのが東西線というわけだ。

【黒い水事件】1958年、東京都江戸川区東篠崎町の旧・本州製紙江戸川工場から黒い排水が江戸川に放流されたことにより、江戸川下流域のアサリ、ハマグリ、ノリ、アユなどがほぼ全滅するほどの漁業被害をもたらした。工場からの黒い排水を止めるため漁民らが集団で工場へ乱入し、機動隊と乱闘になる騒ぎとなった。その後1962年に会社側から漁民へ補償は行われたものの、失われた漁業資源の回復はならず、同1962年から1971年にかけ、浦安町漁協は漁業権を完全に放棄するに至っている。この事件は、旧水質二法(公共用水域の水質の保全に関する法律、工場排水等の規制に関する法律)の制定や、被害を受けた江戸川下流域の再生事業(葛西沖、浦安沖など)のきっかけともなっている。なお、公害発生元の本州製紙江戸川工場は、王子製紙への合併を経て、王子マテリア江戸川工場として、2019年現在でも稼働中である。
▲本州製紙に対する浦安町民の抗議

黒い水事件の頃の浦安は、その素朴な景色とは裏腹に、相当に生活が厳しい町であった。浦安駅から東西線西船橋方面に続く南行徳みなみぎょうとく、行徳、妙典みょうでんの3駅は、1955年まではそれぞれ東葛飾郡南行徳町、行徳町に属していたが、1955~56年にかけて市川市に合併され、現在に至っている。この時、浦安町も一緒に市川市へ合併されていてもおかしくなかったが、江戸時代から神社仏閣が点在し、成田山新勝寺への参詣道の一角を成していた行徳に対し(成田山を目指して船で江戸を発ったものの、いきおい遠いので船着場であった行徳にあった徳願寺に参拝し、また船で帰ってしまう人もいたという)、浦安にはそうした要素が全くなかった。また、低湿地ゆえに水害にも多く見舞われており、特に1949年のキティ台風では、町全体が壊滅する被害を受けている。東京都心からの直線距離は近かったものの、純粋な漁師町であり大規模な産業もなく、行徳のような観光地でもなく、低湿地ゆえに度々水害に見舞われるとあっては、市川市にとって浦安町を合併するメリットがなかったのだ。

このあたりの経緯は、先述した財政力指数日本一を記録する愛知県海部郡飛島村の例と非常によく似ている。かつての飛島村は名古屋市の隣ながら、やはり低湿地ゆえの貧乏自治体で、伊勢湾台風による壊滅的な被害を受けても満足な支援を得られず、救済合併を申し入れてもその貧乏ぶりから断られるも、その後の名古屋港の発展と共に工場や物流拠点が次々に立地し、やがて全国一の金持ち村へなっていったのである。ただ、飛島村には鉄道が整備されなかったため名古屋市のベッドタウンにはならなかったのに対し、浦安市には東西線とJR京葉線が整備されたことから、発展の原動力はあくまで住宅開発であった点が異なる。

1958年の黒い水事件発生に始まり、1962年の埋め立て開始、1969年の東西線開通、1970年の埋め立て完成という猛烈な環境の変化は、400年にわたり続いた漁師町の在り方を、10年足らずのうちに根本から変えてしまった。もはや漁師町としての存続は望めない中、日本橋まで15分で辿り着く電車が開通したことで、浦安は「漁師町としてのみ栄えた町から、近代都市へ」と、猛烈なスピードで変わっていった。

▲東西線の開通は浦安を大きく変えた

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漁師町を今に伝える浦安元町

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