TDLを創った男・髙橋政知
成田空港問題のこじれ、および一挙に行った大規模な設備投資の回収の遅れは、京成電鉄の経営に大きく影響を与えた。
1972年の開港予定に合わせて新造された空港アクセス特急専用車・AE形も、肝心の空港が開港しないのでは働き場所がなく、せっかく新造された6両編成5本もの新車が、宗吾参道の車庫で留置され続けた(1983年から京成上野─京成成田間の特急列車に充当されたものの、最大でも1日3往復であり6両編成5本の車両を満足に動かせるものではなく、空港開港までの機能保全を第一義とした足慣らしでしかなかった)。さらに、成田市街地を横断して建設された京成成田─成田空港(現・東成田)間も開業できない状態が続いた。
これらAE形の新造と空港線の建設に要した投資の回収がままならなかったため、借入金の返済が滞ってしまい、その債務があっという間に膨らんでいく。また、1979年に一部区間が開通した北総線も、千葉ニュータウンの入居が計画通りに進まず、利用は振るわなかった。
結果、空港開港後の1983年には281億円もの累積赤字を抱えるに至り、京成電鉄は「京成線の廃止」を検討するほどの、倒産寸前とも言うべき状況に追い込まれてしまったのだ。この状況を受け、川﨑は経営責任を取り、1958〜1979年の21年にわたり務めた京成電鉄の社長を退任している。その前年、1978年には京成電鉄の経営危機問題への対処に注力するため、オリエンタルランド社長を退任。オリエンタルランドは、創業社長を親会社の経営危機により失う事態に追い込まれてしまう。
その川﨑に代わり、川﨑の夢を叶えるべく中心となって活躍したのが、1983年のTDL開園当時にOLC社長を務めた、髙橋政知である。
髙橋は三井不動産出身で東大卒、妻の実家である髙橋家(自身は婿養子)は渋谷区神山町に居を構え、骨董品を多数所有というエリートであった。一方で浦安の漁民、言わば”荒くれ者”との酒宴も厭わず、持ち前の酒豪ぶりを以て酒を酌み交わす中で漁民の信頼をも勝ち得ていくという、天性の人当たりの良さ、豪胆さも兼ね備えた人物であった。髙橋の存在あってこそ、元漁民との補償交渉がまとまり、浦安沖の埋め立てが進んでいったのである。
髙橋は漁民と話をするにあたり、一流の料亭に招待したそう。その経費は会社が負担することもあったが、当時のOLCは押上の京成電鉄本社に間借りするペーパーカンパニーに過ぎなかったため、髙橋の自腹となることも多かった。それでも髙橋が一流料亭への招待にこだわったのは、「生活の場を売ってくれる漁民への敬意の表れ」であったからだという。
そして、この資金を捻出するため、髙橋家の財産を切り売りしていくことを余儀なくされ、ついには神山町の家屋敷をも売ってしまったそうだ(現在のニュージーランド大使館の敷地)。髙橋本人の努力ももちろんだが、妻の実家という強力な下支えがあってこそ、困難な交渉を次々とまとめ上げられたのだ。
農民と漁民という差はあれど、国家的プロジェクトに翻弄される弱い立場の国民という点において、成田空港問題に揺れた三里塚の農民と、浦安の漁民との間に、本質的な差は少ない。それにも関わらず、成田空港反対運動が沈静化した現在に至ってなお空港敷地内に未取得地が残り、いまだ左翼活動家と結びついた火種が残る成田空港に対し、浦安沖の埋め立てにあたっては、そうした禍根は全く残っていない。これは、成田が国家的権力を盾にとり強制収用を推し進めて農民の強い反発を招いたのに対し、浦安の場合は髙橋が漁民の間に率先して入っていき、信頼関係を構築して理解を得ながら補償交渉をまとめていったという、地元の理解を得られたかどうかが分かれ目になっている。
もっとも、空港さえ来なければいまだ豊かな農業地帯だったであろう成田に対し、浦安の場合は公害によって漁場の存続が危ぶまれており、産業構造の転換を強く求められていたという事情の差もあるかもしれない。それでも、髙橋のようなタフ・ネゴシエーターがいなければ、今日のような浦安のOLCと地元の強力なタッグはなかったと思う。
1970年に舞浜地区の埋立が完成し、1974年にはOLCの招きに応じて米国ディズニー社が来日、まだ京葉線も国道357号東京湾岸道路・首都高速湾岸線もない舞浜地区を視察して回った。当時の社長・川﨑自らヘリコプターに同乗し、東京駅から12kmという立地の良さや、川や海に囲まれた環境であり非日常性を演出しやすい点をアピールした結果、視察からわずか2日後、米ディズニー社がOLCの提案を受け入れる旨を表明するに至った。ディズニーランド誘致を夢見てOLCを設立した川﨑、そして川﨑のもとで漁民との補償交渉にあたった髙橋の努力が報われた瞬間であった。
ちなみに、ディズニーランド誘致を目指したのは、OLCが推した舞浜だけではもちろんない。三井不動産・京成電鉄連合からなるOLC最大のライバルとなったのは、非公式ながら三菱地所が推した富士スピードウェイ(静岡県駿東郡小山町)用地とされている。1966年にオープンした富士スピードウェイは、レースに触発された暴走族によるサーキット周辺での暴走行為が頻発するなど、周辺環境の悪化を招いており、隣町の御殿場市から廃止が陳情されるという存続の危機を迎えていた。
実際に富士スピードウェイのオーナーである三菱地所により遊園地への転用計画が模索され、ディズニー社へのプレゼンテーションも行われたという。既に東名高速道路が隣接するため東京方面へのアクセスも良く、富士山の麓であり箱根にも隣接するというロケーションから、下馬評では富士案の方がリードしていたという。しかし、結果はOLCに軍配が上がった。
その理由は、武器であったはずの富士山の存在であった。「富士山が正面に見えてしまう立地では、ディズニーが目指す非日常性の演出の障害となるため」というもの。つまり、いくらシンデレラ城を中心とした「夢と魔法の王国」を再現しようにも、シンデレラ城の背後に富士山がデカデカと聳えているのでは、せっかく演出した非日常性が削がれてしまうというのが、富士案が却下された理由であったらしい。
富士山は日本のシンボルであり、起床条件によっては東京からでも見える。その富士山が背後にあるという立地は、ディズニー社のイマジニア(ディズニー社内のエンジニア、技術者を指す用語)にとっては、富士山が見えることでその景色に日常との繋がりを産んでしまいかねないため、非日常性を演出する障害でしかなかったのだ。
このほか、同じ千葉県内でも東葛飾郡我孫子町(現・我孫子市)・東葛飾郡沼南村(沼南町を経て現在は柏市の一部)でも、手賀沼の湖岸を埋め立てて「手賀沼ディズニーランド」を誘致する計画が持ち上がり、OLCと同年の1960年に「全日本観光開発株式会社」が発足している。1961年1月1日の「広報あびこ」で2ページにわたる特集が組まれ「ロサンゼルス郊外(=カリフォルニア州アナハイム)のディズニーランドを参考として事業を進める」と説明されるなど、ディズニーランド誘致への期待が高まったものの、こちらは1965年という早い時期にディズニーランド誘致を断念し、埋立地は住宅地へと転用されてしまった(現在の我孫子市若松)。
表向きは「手賀沼の水質悪化により遊園地建設に適さない土地になってしまったため」であったが、会社の資金繰りが悪化して巨額の投資に耐えられなくなってしまったのが原因とされる。ただ実際、手賀沼は1974〜2001年の27年にわたり全国最悪の水質汚濁レベルを記録するなど、とても国民の娯楽の対象となるような安らぎの水辺ではなかったのも、事実ではある。
数多のライバルの計画を跳ね除け、ディズニー社のパートナーとして選ばれたOLCは、順調にTDLの建設を進めていく。そして1983年4月、ついにTDLは開園の時を迎えた。髙橋政知社長が東京ディズニーランドの開園を高らかに宣言する傍ら、来賓として呼ばれた川﨑千春も涙を流したという。1979年に京成電鉄社長を退任して以来、日陰の暮らしを送っていた川﨑ではあったが、1958年の渡米以来25年に渡る夢が実現したのだから、その喜びは並大抵のものではなかっただろう。
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“未完のTDR”二人の夢は続く…