九州・沖縄

【沖縄】冒険と開拓の島・西表島へ──安栄観光フェリー西表島大原航路・西表島交通バス #69

西表島。その不思議な名前と、イリオモテヤマネコに代表される「自然の島」のイメージは、広く知られる。しかし西表島は、冒険と開拓、そして挫折を繰り返してきた歴史を持つ。今回はそんな西表島の歴史と、島を巡る船とバスのお話。

冒険と開拓の島・西表島

西表島といえば、「日本最後の秘境」と呼ばれる熱帯雨林に、イリオモテヤマネコに代表される独自の生態系を有する、沖縄でも屈指の個性的な島だ。その豊かな自然を目当てに、トレッキングやシーカヤックなど、大自然を体感するアクティビティが盛んな、観光の島でもある。

▲りっぱなガジュマルの木がそびえる

西表島は、沖縄県内で沖縄本島に次ぐ第2位の面積を有する大きな島である。その特徴的な名は沖縄の方角の読み方に因るもので、「西」はアガリ西イリパイニシの「イリ」、「表」は石垣島の於茂登岳を指すのだという。つまり、於茂登岳=石垣島の西側に位置する島という意味合いであり、面積は大きいながらも石垣島の属島という立ち位置は、昔から変わっていないということになる。

▲こうした素朴な漁港もあちこちで見られる

西表島は、八重山の離島群を町域とする八重山郡竹富町たけとみちょうに属し、その竹富町の中でも当然最大の島である。町名を冠する竹富島(人口350名)を差し置いて最大の人口を持つ島ではあるが、その人口はわずか2,400名ほど。西表島よりも小さい石垣島の5%程度しか人がいない。それだけに自然が豊かであるといえ、今なお南東部の南風見はいみから、西部の白浜にかけては道路が途切れており、島を一周する道路は存在しない。また、西部の終点・白浜港からは、同じ西表島内でありながら道路が通じておらず、外部との交通手段は船舶だけというユニークな集落・舟浮ふなうき集落への定期船が出ており、舟浮集落は事実上の3次離島(※以下【用語解説】参照)と言える。

▲舟浮集落への唯一の足となる、舟浮海運の定期船。意外と立派な高速船である

唯一の県道・215号白浜南風見線が開通するまでは島内移動にも困難が伴い、西表島東部と西部を行き来するまともな交通手段がなく、仕方なく定期航路で結ばれる石垣島を経由する場合もあったという。なぜここまで一つの島の中で交通困難であったのかといえば、それはこの島の険しい地形と、鬱蒼と茂るジャングルが、人々による開発を妨げ続けてきたためだ。西表島の最高峰は古見岳の469.5mと、石垣島の於茂登岳(525.5m)、沖縄本島の与那覇岳(503m)に次ぐ高さを誇り、それら山々が海岸近くまで迫る地形であるため、人々の居住に適した平地が少ないのだ。

▲砂浜ぎりぎりまで崖が迫るような地形も多い

特に県道が通じていない南東部・南風見から西部・白浜にかけては輪をかけて地形が険しく、海岸線から段々畑のように土地を削り取って、ようやく家を建てられる平地が確保できるという有様だった。かつてこの地域にあった鹿川かのかわ崎山さきやま網取あみとりといった集落は、その地形の険しさと交通の不便さから住人の離村が絶えず、軒並み廃村となってしまっている。南東部から北部を経て西部までの沿岸部以外は全て山とジャングルに覆われていると言ってよく、これが現代に至るまで開発を拒んできた理由である。

▲西表島の立体模型を南から見る。南側の沿岸部はほぼ全てが切り立った崖であり、平地はない

この交通困難という事情は竹富町役場の立地にも影響しており、西表島内のみならず石垣島以外との往来が極めて不便であるため、竹富町役場は1938年以来、石垣市内の石垣港近くに立地している。このことは町民のサービス向上(石垣市内に出たついでに役場の用事を済ませられる)にはなっているものの、町職員が町内に居住せず、町職員の住民税が町に入らないなどの問題もあり、役場の立地は長いこと竹富町政の課題であり続けた。

▲石垣港近くに立地する竹富町役場。ボウリング場を改修したという建物は老朽化が進んでいるため、西表島大原地区への移転が決まった

しかし、2015年には西表島内で人口が最も多い大原地区への町役場移転が決定。現在は石垣市内の現役場の解体および2021年度の「石垣支所」の新設に向けた準備が進められている。いったん「石垣支所」に役場機能を移転した後、島南東部の大原港に近い大原地区に新庁舎を建設する段取りになっている。西表島は、役場の移転によって、文字通り竹富町の中心地になろうとしており、その中心が大原港であるというわけだ。

▲西表島・大原港近くにある、竹富町役場の早期移転を願う看板。竹富町政の長年の課題に決着がついた

現庁舎跡地に石垣支所 竹富町役場移転 | 八重山毎日新聞社http://www.y-mainichi.co.jp/news/34633/

【用語解説】●次離島・・・本州・北海道・沖縄本島を「本土」とし、その「本土」から直行の交通がある離島を1次離島(石垣島など)、1次離島からの交通しかない離島を2次離島(西表島など)、そして2次離島からの交通しかない離島を3次離島という。現代日本において、3次離島で定住人口があるのは沖縄・宮古諸島の水納みんな島(沖縄本島→宮古島→多良間たらま島→水納島)しかないと言われるが、2次離島である西表島から船舶で移動しなければならないという点では、同じ島内ではあるが舟浮集落は実質的な3次離島と言える。

現在はその豊かな自然を売りにした観光が盛んな島であるが、今も昔も西表島での生活には、その豊かな自然が牙をむくことがある。西表島のもう一つの顔としては、「開拓の島」であったということが挙げられよう。いくら大きくとも、未開のジャングルが広がるばかりであり、利用が進んでいなかった西表島は、幾度も先人たちが開拓に挑み、そして過酷な自然の前に撤退を余儀なくされるという歴史を繰り返してきた。

▲西表島北西部に広がる農地。しかしここが農地となるまでは壮絶な自然との闘いがあった

周囲の小島からの強制移住が行われ、その結果ジャングルにつきもののマラリアに集落全員が罹患して全滅したり、或いはマラリアの危険を回避するために西表島での寝泊まりをせず、周囲の小島からの通耕が行われたりと、西表島の開拓には大変な困難が伴った。そうまでして西表島の開拓に先人たちが挑み続けた背景には、宮古・八重山諸島を300年以上苦しめた首里の王府、ひいては薩摩の島津による苛烈な人頭税の取り立てがあったことは、今でも静かに語り継がれている。その過程の中で、人々があまりの環境の厳しさに見切りをつけ、廃村となってしまった集落も数多い。そしてその廃村は、ついに道路が通らなかった島の南部から南西部にかけて点在しているのだという。

▲通耕時代の面影を残す由布島の水牛車。現在はもっぱら観光用だが、かつてはマラリアのない由布島から水牛車で西表島へ渡っての耕作が行われていた

また、戦争中には周囲の小島からの避難(=小島の要塞化)による強制移住が幾度も行われ、西表島でマラリアに罹患して人命が失われるということが多発した。波照間島の学校長が、この経緯を島南部・南風見田はいみたの浜の岩に刻んだ「忘勿石わすれないし」の言葉は、この「戦争マラリア」の歴史を今に伝えている。

▲由布島に残る小学校跡。西表島からマラリアがなくなったことで全島民が移住し、由布島は無人島となった。現在は島全体が植物園となり観光地化されている

長きにわたり西表島開拓の障害となり続けたマラリアは、ようやく戦後になって根絶されるに至った。しかしながら、このマラリアの存在によって人間の侵入が阻まれ、豊かな生態系の保全に貢献することになったということは、この島に存在したマラリアのもう一つの側面である。マラリアが存在したからこそ、西表島の自然は現代に至るまで、その豊かさを失うことがなかったというわけだ。

▲西表島を代表する存在、イリオモテヤマネコ(剥製)。西表島生態系の頂点に君臨する存在である

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西表島への2つの航路

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