九州・沖縄

【沖縄】日本最南端・豊原バス停から始まるバスの旅――西表島交通バス #70

日本最南端のバス停・豊原へ

大原港で待つこと40分あまり、黄緑色のボディにイリオモテヤマネコのステッカーをあしらった、西表島交通の路線バスがやってきた。大原港から豊原までは2停留所・2.6km、僅か5分。

豊原集落は観光地でもないごく普通の集落で、観光客が立ち寄るような場所ではない。むしろ豊原の3.8km先の南風見田はいみたビーチや、その途中にある「忘勿石わするないし」の方がよほど知られた観光資源であるのだが、路線バスはそこまでは行かない。豊原は西表島東部にある最奥部の集落で、その先である南風見田ビーチ周辺には、定住人口がいないからだ。…といっても、バス派の観光客にとっては、南風見田ビーチまで行ってくれればいいのに、と思わなくもない。

上原港方面からやってきた乗客は15名ほどいたが、全員大原港で降りてしまい、大原港からの乗客も自分しかいなかったため、大原港から豊原までは貸切になってしまった。

「どちらまで?」

サングラスをかけた強面の乗務員さんの、眼光鋭い視線を浴びた。豊原行きに乗ってくる観光客などほぼいないこともあるだろう。

「豊原までお願いします。あと、3日のフリーパスをください」

「あいよ。1,540円ね」

…といった感じ。1日券は1,030円、3日間は1,540円なのに、豊原〜白浜間全線を乗り通すと1,420円かかるので、相当お得な設定である。というより、実勢価格としては1,030円で打ち止めであるという理解の方が正しい。

バス車内のスピーカーからはFM沖縄が流れており、なんとも開放的な雰囲気。路線バスのスピーカーからラジオが流れているのは、初めての経験。

発車直前になって、二人組が駆け寄ってきた。閉まりかかったドアを再び開け、乗り込んできた二人組は安栄観光のバス券を提示。強面の乗務員さんは「こっちじゃないよ。安栄のバスはあっち。あの列に並んでね」と、少々ぶっきらぼうに二人組を案内していた。わかりにくいのは確かだが、乗務員さんもこの対応にうんざりしている様子。高速船だけでなく、バスも含めた共同運行化が必要だ。12:18、大原港発。

「次は、大原診療所前です」

機械音声が流れるとともに、運賃表のディスプレイが切り替わった。正直、宮古島ばりの無い無い尽くし(放送なし、ディスプレイなし、路線図なし)を想像していただけに、石垣島や沖縄本島と同等の自動放送、自動ディスプレイを完備しており、車内に路線図の掲示もある西表島交通バスは、なかなかのサービスレベルではないか。50km乗って1,420円、実質1,030円という運賃設定も、沖縄本島よりも安い。(参考:琉球バス交通【120】那覇空港〜恩納村役場前間50.1km…1,450円)

西表島東部唯一の医療機関・大原診療所前は乗降なし。もっとも、ゴールデンウィーク期間中は全日休みなので、通院客はいようもない。余談ながら、これほど長期にわたり診療所が休みになるのは、離島と言えどもなかなか珍しいことのようで、竹富町の防災無線で毎日繰り返し放送されていたほどだ。

農地の中を走ること数分、集落の中に入るとやおら停車し、乗務員さんが一言「終点です」と告げた。ここが「日本最南端のバス停・豊原」であるわけだが、なんとも呆気ない到着であった。「降車専用」のポールすらなく、豊原公民館の前の路傍に降ろされてしまった。

ほどなく、バスは少し先の転回場へ向かい、「回送」幕を表示したバスは、大原港方面へと走り去っていった。折り返しは1時間17分後の白浜行き。この時間が乗務員さんの休憩時間に充てられ、大原港あたりで昼食を取るのであろう。回送にせず客扱いをしてもいいように思うが、豊原―大原港間の乗客がそんなにいるとも思えないのも確か。

西表島の路線バスは、長らく大原港を終点としており、豊原までの運行を開始したのは2006年と、つい最近のこと。というのも、豊原集落への入植が開始されたのは1953年のことで、西表島のどん詰まりでしかなかった豊原は、長く影の薄い場所だった。しかしながら、大原港に近い豊原でも、近年はリゾートホテルやレストランがオープンし始めており、純農村であったのが変化しつつある。そうした変化を踏まえ、路線バスも延長されたのだろう。

豊原公民館の前には「豊原入植●●周年記念」「心を拓き 里盛る」といった石碑が並んでいた。何もなかった豊原を、文字通りの豊かな地にしてきたという自負に満ちているかのよう。そもそも「豊原」という地名も、60年以上前、1953年に豊原へやってきた入植者の願いが形になったものであろう。偶然ではあるが、沖縄から遠く離れた北の果て・南樺太の中心地となった場所も「豊原」である(現在のユジノサハリンスク)。

明治~昭和の初めにかけては沖縄からハワイ、ブラジルなどの海外移民が多く、それだけ沖縄での生活に困難が伴った時代でもあるということ。戦後に日本の施政下から外れて海外移民が難しくなり、それでも農地の開拓に迫られた入植者たちは、いまだマラリアが蔓延る豊原へと、縋る思いでやってきたに違いない。西表島からマラリアが根絶されたのは1961年のことであり、波照間島の「戦争マラリア(※)」の記憶も鮮やかな中では、豊原への入植はマラリアとの闘いでもあった。

そもそも、豊原は1920年代に住民全員がマラリアに罹患して廃村となった場所(当時は南風見田はいみた村)であり、そこへの再入植となったわけだから、相当な覚悟が求められただろう。豊原の住所は現在でも竹富町南風見はいみであり、廃村の名残が現在でも見られる。

※戦争マラリア…マラリア発生地ではなかった離島住民が日本軍から疎開を命じられ、西表島などのマラリア発生地へと集団疎開したことで島民の殆どがマラリアに感染する事態となったことを指す。自発的な移動でなく、戦争によって強制的に引き起こされた集団感染であるためにこの語を用いる。特に八重山諸島・波照間島の戦争マラリアの悲惨さが知られ、島民の99%が罹患し、さらに30%が死亡したという。戦争終結後、波照間島へ帰島することとなった折、当時の波照間小学校長が南風見田ビーチの岩にこの記憶を刻んだのが、現在でも残る「忘勿石(わするないし)」である。

豊原公民館周辺に立ち並ぶ「豊原開拓団」とか「豊原入植●●周年記念」の石碑群は、こうした先人の豊原開拓に懸けた情熱を今に伝えてくれる。戦争もなく、マラリアもない、今の平和で実り豊かな西表島があるのは、こうした先人たちの努力によるものなのだ。

・・・それにしても、石碑群を一通り見てしまえば、近年になってホテルやレストランが建ち始めたとはいえ、正直言って見るものがあまりない。適当なカフェはおろか、商店の一軒も見当たらない。ここに1時間17分も滞在しているのも意味はなく、さりとて忘勿石までは1.9kmあるため時間内で戻ってくるのは厳しく、豊原周辺を適当にぶらつくしかなかった。

豊原バス停から徒歩5分ほどのリゾートホテル「ラ・ティーダ西表」近くの浜へ向かうと、鬱蒼とした木々の間を抜ける羽目になった。道の真ん中にねじれにねじれたガジュマルの木が生え、岩戸岩の間を飛び移るような場所もあった。歩道から2mも入ると陽の光は届きにくくなり、ああこれが南の島のジャングルかと納得。

抜けた先の浜は漂着ゴミが多く、西表島の抱える問題に図らずも触れることとなったが、ゴミが打ち上げられている以外は手つかずの浜が残っていた。漂着ゴミは見たところ中国や韓国、ロシアのものばかりで、国内での対策には限界があるだけに、何とももどかしい。この美しい浜にゴミさえなければ、と思わずにはいられなかった。

(次ページ)
最南端・豊原から出発

1 2 3 4