知られざる旧網取集落と西表炭鉱
船体を見やると、「船浮⇔白浜⇔網取」と大書きされた行先プレートが目についた。はて、今は白浜─船浮のみの運行であり、網取行きはないはずだが…と不思議に思いながら乗ると、船内の航路図にも網取に相当する地点への航路が描かれていた。
網取は1971年に廃村となったものの、旧・網取小中学校の跡地へ東海大学沖縄地域研究センターが1976年に開設され、海洋生物などの研究が行われている。人煙が絶えた網取の地であれば、研究者の生活に必要な最低限のインフラは既にありながらも、人間の活動に観測結果が左右されることがほぼないため、自然環境の研究には最適の立地と言える。
こうしたことから、白浜─船浮間の運航が終わったあと、毎週木曜日のみ、船浮18:10発→網取18:40発の1往復の運航が続けられてきた。しかしながら、定期船の利用では白浜→船浮→網取間はともかく、網取→船浮→白浜間の当日中の移動ができず、船浮への1泊を強いられるという不便さは否めなかったこと、木曜のみ18時台1往復という運航では釣り客の利用もできなかったこと、東海大学の自家発電装置が重油利用から太陽光利用へと切り替わって燃料輸送も無くなったことなどから、2010年をもって廃止となった。
現在、東海大学関係者は大学所有の船で移動しているほか、網取周辺は釣りスポットでもあることから、釣り人がチャーター船で訪れることがあるのだという。
白浜~網取航路 需要なく廃止を決定 – 八重山毎日新聞 http://www.y-mainichi.co.jp/news/16458/ |
さて、その船浮港行きに乗り込んだ乗客は、やはり到着便と同じく15名ほど。ほどなく船体が動き出し、Uターンして船浮港を目指す。
航海図にもある通りだが、船浮航路は外洋には出ず、基本的には西表島と内離島・外離島に挟まれた水道を行く。よって、高波になることもなく、穏やかな航海であった。
そして、今は白浜や船浮を波浪から守ってくれるこの内離島・外離島こそは、戦前から戦後にかけて盛んに採炭が行われた、かつての西表炭鉱の跡である。西表島に炭鉱?とはイメージが湧かないが、太古の昔から豊かな自然に覆われ、草木が生い茂った西表島では、その草木が長い年月を経て石炭化し、地中に埋まっていたというわけだ。
西表炭鉱は、沖縄県でほぼ唯一と言っていい炭鉱であり、あのペリー提督も大いに興味を示したという。明治以後は三井などの財閥の手によって採炭が進められたが、西表島特有のマラリアが蔓延したこともあって、九州や常磐、北海道ほどの採炭地にはなりえなかった。それでも、採炭全盛期にはこの「西表島の離島」という環境自体が鉱夫の脱走を阻み、それにまつわる悲劇的なエピソードも数多くある。
今では、もとの草木が生い茂る無人島に戻った内離島・外離島であるが、そうした歴史を風化させないようにということなのか、白浜港の旅客待合所には西表炭鉱にまつわる解説パネルが展示されている。もし訪れることがあれば、こうした歴史にも思いを馳せておいて損はないだろう。
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秘境-船浮集落の名もなき浜で