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【長崎】【佐賀】西九州線の数奇な歩み&伊万里牛に舌鼓――松浦鉄道西九州線(3) #25

ジューーー。「伊万里牛取扱指定店」と誇らしげな伊万里焼のプレートが掛かる傍で、シェフの手によってサーロインの色が鮮やかに変化してゆく。名高き佐賀牛のなかでもひときわ名高き伊万里牛、この舌でぜひ堪能しようじゃないか───。

目次

・クルマ観光客も歓迎、たびら平戸口駅

西田平を15:41に出た松浦鉄道西九州線普通伊万里行きは、次のたびら平戸口で6分停車。長距離乗車の観光客にとってはちょうど良い休憩タイムで、この6分を利用して資料館を見物する人や、記念の入場券を買う人もいる。

そして、平戸観光のついでなのか「日本最西端の駅にやってくるローカル線」を見物するだけの人もぞろぞろいるのには驚く。松浦鉄道の側もこうした鉄道に乗らない訪問客も歓迎しているようで、「あと3分で発車しますよ〜、写真お撮りしましょうか」なんて声かけを率先して駅員さんがやっている。こうした光景には心安らぐものがあるし、何より松浦鉄道にとっても入場券代が収入になる。たびら平戸口の駅前は決して広くはないが、それでも何台かは車が停められるので、マイカーの観光客にとっても立ち寄りスポットになっているのだろう。

「本当は列車に乗ってみたいが、今日は家族の車なので入場券だけ」といった、いかにも名残惜しそうな少年の澄んだ眼差しが痛い。大丈夫、きっとそのうち自分の足で旅に出られる日が来るよ───、かつてそんな少年だった自分は、そんな感慨を覚えずにはいられなかった。

f:id:stationoffice:20180815183145j:image元祖「日本最西端の駅」を主張する駅名標
f:id:stationoffice:20180815183148j:imageローカル色たっぷりの駅は観光客で賑わっていた

15:50、たびら平戸口発。松浦鉄道西九州線普通伊万里行き。

・海陸連帯輸送の名残を残す平坦線

たびら平戸口までの西九州線は、佐世保の都市近郊路線らしからぬその蛇行ぶりに、かつて谷筋を掘って掘って石炭を運び続けた私設の運炭鉄道としての出自を感じさせてくれた。しかしたびら平戸口より先は一転し、海べりの平坦線を淡々と走るようになり、スピードも上がる。これは、たびら平戸口─伊万里間が運炭鉄道としての役割に加え、伊万里や有田、さらには佐賀や博多と、平戸口桟橋を直結させるための海陸連絡鉄道の役割も持って国鉄線として生まれたという、純運炭鉄道の私鉄として開通した佐世保側に対して開通の経緯が異なることによるものだ。

f:id:stationoffice:20180817004120j:image美しい棚田と玄界灘(御厨→松浦発電所前)

有田─伊万里─たびら平戸口間は、まず1898年に有田─伊万里間が「伊万里線」の名で開通。有田焼を伊万里の港へ運搬するためという、全国にも珍しい陶磁器輸送のための鉄道であった。次いで1930年に伊万里でスイッチバックして松浦・平戸口方面への延伸をはじめ、1935年に平戸口へ到達。この時期はいよいよ軍事輸送の色が濃くなってくるあたりで、国際航路こそ無かったものの、引き続き地方港湾都市として海上交通の要衝であった平戸への鉄道の延伸は急務であったことだろう。伊万里からさほど寄り道することなく、まっすぐに平戸口へ向かう線形となっているのは、沿線に点在していた炭鉱からの貨物輸送ももちろんであるが、田平・平戸からの航路との連携も重視していたためではないかと思う。離島の防衛が現在とは比較にならないほど重要であった当時、離島航路の起点となる港湾都市へ向かう鉄道の拡充は、国策と切っても切れない関係であった。

その象徴的な話として、1944年4月に開通した潜竜(せんりゅう、現・潜竜ヶ滝)─肥前吉井(現・吉井)間にある福井川橋梁の話が挙げられよう。この区間は、有田・伊万里側の「伊万里線」と、佐世保側の「松浦線」を結ぶための最後の区間であった。本来であれば鉄筋コンクリートを用いるべきところ、戦時の物資不足ゆえ、鉄筋を竹で代用したという説がある。現在に至るまでその真偽は不明であるが、そのくらい物資不足が深刻であったにもかかわらず、軍都・佐世保への鉄道延伸が急がれたということだろう。この2.3kmの区間の開通によって有田・伊万里側と佐世保側が結ばれたことで、有田─伊万里─平戸口─佐世保間の全線を「松浦線」に改称。初めての区間の開通から実に45年をかけて全通している。

f:id:stationoffice:20180815182655j:image九州電力・電源開発松浦火力発電所。松浦は今でも石炭の要地
f:id:stationoffice:20180815182659j:image「発電所前」を名乗る駅は日本でもここだけ

玄界灘に浮かび上がる威容を誇る松浦発電所の目の前にある松浦発電所前では、出張帰りらしきビジネスマンが一人、見送りの人に送られながら乗り込んできた。北松炭田の時代とは変わりつつも、海外炭ではあるものの、石炭がなお松浦市の経済を支えていることが窺える、印象的なシーンであった。

たびら平戸口から24分で松浦。旧国鉄「松浦線」の名を冠する駅で、松浦市の中心となる地であるが、いたって静かな駅。北松炭田(ほくしょう─)閉山後は御多分に洩れず、基幹産業を失ってしまった。その次なる基幹産業として松浦発電所の誘致を行ったわけであるが、平成の大合併を経てなお人口23,000人という規模は、おおよそ「市」のそれではない。

f:id:stationoffice:20180815191742j:image地域の小さな交通ターミナル、松浦駅。画面には写っていないが、左側の駅舎脇には西肥バスも待機している

しかしながら、やはりというか何というか、ここからも佐世保行きの西肥バスが1時間に1本発着する。平戸桟橋からの(半)急行と違って「普通」を名乗るが、1時間に1本という運転間隔は平戸桟橋発と遜色ないものだ。

海べりをぐねぐねと蛇行してゆく西九州線と異なり、北松浦半島の付け根を横断してゆく短絡ルートを採るため、佐世保まで1時間10分、佐々までは僅か30分で着いてしまう。西九州線だと佐世保まで1時間50分、佐々まで1時間を要するため、所要時間では比較にならない。

そのため、松浦市においての西九州線の役割は佐世保への足ではなく、伊万里や平戸(口)といった玄界灘沿いへの公共交通といったところ。先述した平戸桟橋─松浦駅前の西肥バス平戸松浦線も、西九州線に並行する伊万里松浦線もやはり2時間に1本程度。この点、1時間に1本がきっかり同じ時間でやってくる西九州線は頼りになるだろう。松浦駅からやや離れていた松浦バスセンターが、2003年の松浦駅改築に合わせ松浦駅へ統合され「松浦交通センター」の名に改められたあたり、ここでも西肥バスと西九州線は補完し、連携する関係にあるのだろう。言うなれば、扇の要に佐世保があり、西肥バスが東松浦半島各地の扇の外周へと直線で結び、その外周に沿って西九州線が走るようなものか。

松浦で3分停車して佐世保行きと交換。ここから佐世保まで乗り通す人はまずいないであろうが、それでも安易にたびら平戸口や佐々で切ったりせず、佐世保直通を柱としている点は好ましい。佐世保ピンポイントであれば鉄道の出る幕はないにせよ、バスが利用しにくい大学(=長崎県立大学佐世保校)、江迎鹿町などの主要駅が西九州線には点在する。乗り換えなしの直通サービスを提供するには、全線直通とするのが一番いいのだ。16:17、松浦発。

f:id:stationoffice:20180815192401j:image向こうに望むは鷹島か福島か
f:id:stationoffice:20180815192405j:image玄界灘沿いの直線を飛ばしてゆく

松浦の次、「調川」はいかにも読めない。東京の「調布」のような、おそらくは平安時代の租庸調に纏わる地名だろうが、それがなぜ「つきのかわ」になるのか…「月に一度織った布をくぐらせる川だった」とか、そんなところだろうか。ともかく、防人以来の長い歴史を持つ北部九州らしい地名とも思う。

16:28の鷹島口、16:34の福島口と、島の名を冠した駅名が続く。いずれも玄界灘に浮かぶ島であり、平成の大合併で松浦市となるまではそれぞれ北松浦郡鷹島町、北松浦郡福島町で独立していた。しかし、その地形ゆえ離島架橋の折に至っても長崎県本土と結ばれることはなく、鷹島は佐賀県の唐津市(旧肥前町)、福島も同じく佐賀県の伊万里市と結ばれてしまった。このため平成の大合併の折は越県合併も模索されたが、結局県境の壁は如何ともし難く、定期航路があった松浦市と合併するに至っている。どちらも唐津、伊万里といった地域の中心都市へ架橋された折、航路の利用者は多くはない。それでも公共交通ネットワークを担う松浦鉄道としても、島の名を冠する駅を維持しておくのは、ひとつのアピールになるだろう。

「市内線」的な伊万里─有田間

たびら平戸口から1時間5分、松浦から38分を経て16:55、ようやく終点・伊万里に到着。西九州線では佐世保からは2時間半となるが、ここもやはり西肥バスが1時間10分程度で佐世保との間を結んでいる。

f:id:stationoffice:20180816234536j:image松浦・たびら平戸口方面(右)と有田方面(左)はホーム対面で接続
f:id:stationoffice:20180816234528j:image西九州線同士はスイッチバック。JRの乗り場は道路を隔てた先
f:id:stationoffice:20180816234540j:image改称から20年以上経つが「たびら平戸口」にはなっていなかった

f:id:stationoffice:20180816235026j:image行き止まりの伊万里駅。JRとは道を挟んで向き合うのみで、レールは絶たれた

といってもここは佐賀県となるためか、佐世保行きのバスは概ね2時間に1本と、松浦や平戸といった長崎県内の各駅よりも本数は少ない。福岡行きは別として、同じ佐賀県内の唐津行きや佐賀行きの昭和バスが1時間に1本程度出るようになり、長崎県内の各駅とはまた違った利用動向が見られるようになってくる。

さて、鍋島焼の里・伊万里で知られる伊万里市街を歩いてみたさはあるものの、駅舎併設の「伊万里・鍋島ギャラリー」は残念ながら17時クローズ。伊万里駅近傍の「陶器商家記念館」も17時クローズで、徒歩での目的地は軒並み17時までだ。伊万里に限った話ではないが、夕方になってくると街を歩いても目的地が居酒屋くらいしか無くなってくるのが、地方都市らしいところ。

この次は西九州線で有田方面でひとつ先、川東駅近くの伊万里牛ステーキ店へ行く予定で、予約の時間までは少しあったので伊万里駅付近を歩こうかとも思っていたが、このまま伊万里駅に留まっても目的地がないのでは仕方がない。いったん8分後の17:03発西九州線普通有田行きに乗り換えて終点・有田まで行き、松浦鉄道を完乗してからステーキ店へ行くことにした。

有田行きは1時間に1本の松浦・たびら平戸口方面よりも本数が多く、1時間に2本の時間帯も少なくない。ただし最終は21:20と早いが、松浦方面(21:59発最終松浦行き)、JR筑肥線唐津行き(20:30発最終唐津行き)にしても似たようなものなので、やはりこの街は夜が早い傾向にある様子。

17:03、伊万里発。松浦鉄道西九州線普通有田行き。

f:id:stationoffice:20180816234532j:image有田行きは沿線をPRする特別塗装車だった
f:id:stationoffice:20180816235022j:image佐々の車庫までは2時間かかるため、伊万里駅にも留置線がある

伊万里発車の時点では座席が埋まる程度。夫婦石(めおといし)で下り伊万里行きと交換。有田町役場が近い西有田でやや多い乗降があったが、基本的に各駅毎に数名ずつが入れ替わってゆく。終点・有田の一つ手前、三代橋(みだいばし)からも買い物袋を提げた高齢者が乗り込んできた。僅か1.7kmであるが、それでも歩くには遠い距離であり、高齢者にとっては貴重な足だ。三代橋駅の近くには中型スーパーのマックスバリュがあり、そこからの買い物帰りだろう。有田駅付近は有田焼の窯元が密集する旧市街地のため、マックスバリュのような商業施設には乏しい。松浦鉄道転換後は新駅が増え、国鉄時代の途中駅は夫婦石・蔵宿(ぞうしゅく)の2駅のみだったが、今ではほぼ倍の駅があるため、このような市内線的な利用の掘り起こしに繋がっているようだ。

伊万里から26分の17:29に有田に到着。多くは改札口への階段を上がっていくが、20分後のJR佐世保線普通肥前山口行きを待つ高校生もいる。予想に反し、有田での特急接続がない列車だったからかもしれないが、伊万里からの乗り通しは三分の一もいなかった。沿線の様子を見る限り田畑もあるが人家は絶えず連続している区間であり、駅付近以外には何もないという典型的なローカル区間とも言い切れない。途中駅での乗降の方が多かったのは、それだけ西九州線が伊万里と有田の間の市内線的に機能している証左でもあろう。

f:id:stationoffice:20180816235750j:image「おおき」と読みたくなるがここは「おおぎ」
f:id:stationoffice:20180816235754j:image佐世保線経由なら佐世保から20分だが、西九州線経由だと3時間

伊万里牛の「イチボ」を味わう

有田到着から9分後、有田17:38発松浦鉄道西九州線普通伊万里行きで引き返す。伊万里行きも有田行きと似たような利用状況で、やはり西有田の乗降がやや目立つ。そして伊万里の一つ手前、川東(かわひがし)駅に着いたのは18:01。

f:id:stationoffice:20180816235945j:image川東を出る伊万里行き

こんな簡素な片面ホーム1面の小さな駅に降り立ったのは、駅徒歩6分の場所にある「ステーキ 勝(しょう)」へ行くためだ。川東駅もやはり国鉄時代には無い駅で、松浦鉄道転換後に開業した新駅。佐賀県立伊万里高校が近く、付近の私有地には「伊高生通り抜け禁止」なんて立看板もあったくらい。学校のHPを見ると、伊万里駅からだと徒歩20分だが、川東駅からは8分。伊万里駅で乗り換えとなるが、松浦方面と有田方面は数分で接続を取るため、乗り継ぎ利用も多いはず。伊万里方面、有田方面双方から、川東駅へ向かう高校生の波がそれだけ多いのだろう。

さて、お目当ての「ステーキレストラン 勝(しょう)は、川東駅から住宅街の狭い坂道を上り、伊万里と佐世保を結ぶ国道202号沿いに出たところにある。特に駅に案内があるわけではないが、地方都市のロードサイド店でありながら、駅徒歩6分の近さはありがたい。

さて、本日は伊万里20:30発のJR筑肥線最終唐津行きに乗り、唐津の宿に泊まる旅程を組んでいたので、あまりゆっくりしている余裕はない。念のため18:15の予約を取っていたが、他にいたお客さんは1組だけ。訪問が6/24(日)であったこともあり、伊万里でディナーを食べてから帰るとなると、東京はおろか福岡到着も21時を過ぎてしまう。そのため観光客の姿はなく、自分らの後に来店したお客さんも、あくまで地元の人がちょっといいディナーを楽しんでいる様子であった。

f:id:stationoffice:20180817000136j:image国道沿いながら感想から一歩離れた奥座敷のような静かさ

昨夜の佐世保レモンステーキに続き、やはり伊万里に来たら佐賀牛、とりわけ伊万里牛を楽しみたいもの。メニューを見ると、オススメに「イチボ」とある。牛尻肉の上側の部分のことをいうそうだ。シェフの方曰く「赤身と脂身のいいとこ取りをしたような部位ですよ」とのこと。未知の部位だけを注文するのも冒険だったが、ここはサーロインとイチボを100gずつ注文することに。さて、そのイチボがこれだ。

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f:id:stationoffice:20180817000304j:image醤油や柚子胡椒と共に頂く

舌触りは赤身肉らしく淡白な印象だが、後から後から上品な脂分がほどけ、舌に染み込んでくるかのよう。なるほど、赤身肉らしい素直なあっさり加減は残しつつ、その隙間にきめ細かな脂身が散りばめられているような、確かに「赤身と脂身のいいとこ取り」な感じだ。それでいて単価はサーロインよりも安く、これはお得な部位だ。もちろん一緒に食べ比べたサーロインも美味であったが、その旨味と安さからすると、ここはイチボの勝利と言えそうだ。ただしステーキ店ならどこでも取り揃えてあるようなメジャーな部位ではなく、ステーキ「勝」さんが肉の卸を直営しているから提供できるといったこともあるだろう。

まさに畜産の街ならではの、安くて美味いステーキを堪能できたのは幸運だった。駅にも近いので、鉄道旅行の人にもオススメしたい。

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一緒になってまた別れて…伊万里駅舎

伊万里牛を堪能し、川東19:14発伊万里行きで伊万里駅へ戻った。伊万里までは2分、19:16に到着。松浦方面への接続列車がないため、殆どの乗客は改札を抜けてゆく。21分後、19:35にも有田発伊万里行きが到着するが、こちらは19:42発佐世保行きが接続するため、乗り継ぎ利用は一本後に集中しているのだろう。こちらは1時間以上あとの20:30発JR筑肥線最終唐津行きまで待つため、一旦駅から出てみる。

f:id:stationoffice:20180817002957j:image川東19:14発伊万里行き。19時過ぎでも明るく、西国は日が長い
f:id:stationoffice:20180817002950j:image車内精算が基本なので改札口はない
f:id:stationoffice:20180817002954j:image自動券売機も18時で停止する。車内精算で事足りるのだろう
f:id:stationoffice:20180817002946j:image唐津・福岡への昭和バス、佐世保への西肥バスの券売機が並ぶ

同じ西九州線同士ながらスイッチバックとなるのは、先述した開通年代の違いによる歴史が関係している。明治期、1898年に有田から伊万里港に向かって開通した線路は松浦・平戸口方面とは反対を向いており、1930年に松浦方面への延伸を開始する際は、伊万里駅からスイッチバックとするほかなかったと思われる。その後、1935年にJR筑肥線の前身となる北九州鉄道線がスイッチバックの終端側から乗り入れてきたので、伊万里駅は一見して博多・唐津方面からの筑肥線が有田方面と松浦・平戸口方面へと分岐してゆくかのような線形となったが、この時点で両社は国鉄と私鉄の関係であり、直通運転はされなかった。見た目通りの博多・唐津←→松浦・平戸口・佐世保方面への直通運転が始まるのは、北九州鉄道が国有化される2年後の1937年まで待つ。伊万里駅の開業から実に40年近くを要したことになる。

筑肥線の国有化後はしばらく松浦線と筑肥線の接続駅であったが、1987年の国鉄民営化ののち、1988年に松浦線がJR九州から松浦鉄道西九州線として分離され、伊万里駅に乗り入れるJR線は後から乗り入れてきたはずの筑肥線だけになったのは、どうした運命だろうか。しかし会社こそ分かれたものの、引き続き両社の共同使用駅としてレールも繋がっていたが、転機が訪れたのは2002年。

ここからの展開については、貴重な現地の方の生のお話を聞けたので、それを織り交ぜながら次週紹介しよう。

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2002年にJRの東駅舎(左)と松浦鉄道の西駅舎(右)が分かれ、その間を道路が貫くユニークな構造に生まれ変わった伊万里駅。JRと松浦鉄道を結んでいたレールは絶たれてしまったが、駅の変化が街にもたらしたプラスの変化もあった。そこから学べることは何だろうか。

(つづく)