目次
・「神都」を結んだ・・・三重交通神都線
その町で何かが盛んであることをPRするとき、或いは町の雅称として、「●都」という表現がよく使われる。自分が知っているだけでも、「学都仙台」であるとか「楽都郡山」「雷都宇都宮」「柳都新潟」といった感じ。中でも仙台市は『学都仙台』のキャッチフレーズを使っていて、仙台市バスは『学都仙台フリーパス』なる通学定期券を発売しているくらい、市内では定着した表現だ。
しかし、これら「●都」たちは、伊勢神宮のお膝元たる伊勢市、かつては宇治山田市を指す「神都(しんと)」ほどには、その歴史の長さも、言葉の威光も及ばないだろう。何しろ、宇治山田は伊勢神宮が遷座して以来、一千年以上も「神の都」であり続けているのだから。そして、その「神都」の名を頂いてかつて走った電車と、今も走るバスがある。
かつて走った神都線の電車を模した「神都バス」。トロリーポールも再現され、電車の雰囲気たっぷりだ
伊勢神宮は、天照大神を祀る「内宮(ないくう):豊受大神宮」と、豊受大神(とようけのおおかみ、食事をはじめとする衣食住の神とされる)を祀る「外宮(げくう):皇大神宮」の大きく二つに分かれており、内宮と外宮は5kmほど離れている。そして、外宮→内宮の順に参拝するのが一般的であり、片方だけ参拝するのは片詣りとよばれ、縁起が悪いとされる。この二つの宮を結ぶべく、かつて伊勢の街を走った電車が三重交通神都線、今の三重交通バス【51】【55】外宮内宮線というわけだ。
明治以降、国家神道の隆盛と鉄道の発達に伴い、伊勢神宮の参拝客は増加の一途を辿った。それと共に外宮と内宮を行き来する交通量も増加の一途を辿り、参宮線山田駅と外宮、内宮を結ぶ交通機関が求められた。こうして1903年に最初の区間が開業し、1914年に内宮鳥居前の宇治(うじ)から内宮前まで到達、神都線本線が全線開通した。東京都電や大阪市電と前後する、日本で7番目の電気鉄道の開通であり、この時期の伊勢がいかに重要地であったかがわかろうというもの。
また、外宮内宮線だけでなく、現在のCANばす(伊勢神宮―二見浦―鳥羽水族館・ミキモト真珠島といった伊勢地域の観光地を結ぶ観光周遊バス)の原型ともいえる二見線、および朝熊山(あさまやま)へ向かう朝熊線といった支線が存在していたのも、特筆すべき事項であろう。二見浦(ふたみがうら)は天照大神が伊勢で初めて降り立ったところであり、朝熊山は伊勢神宮の鬼門(北東)にあたるため、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」と言われるほど深い信仰の対象であった。両者とも伊勢神宮の信仰と密接に結びついたところであり、この二つへも神都線の線路が伸びたのはある種当然といえる。二見へは1903年の開業当初から、朝熊山へは1925年に朝熊登山鉄道が平坦線・ケーブルとも開通させたものを1928年に合併し、最盛期を迎える。山田駅前を起点に内宮前、二見、平岩(ケーブル下)へ、また内宮から二見浦へ向かう乗客のために、内宮前―二軒茶屋(二見線接続)を結ぶ電車が各30分間隔で走っていた。
最盛期の神都線ネットワーク(朝熊登山鉄道ケーブルカー含む)と、現在の三重交通外宮内宮線 ※Google mapに加筆。ただし線路の位置は必ずしも正確なものではありません。
しかしながら、戦時体制が色濃くなっていくにつれ、行楽色が強かった朝熊線が1944年に休止の憂き目に遭う。1945年の宇治山田空襲では市街地の5割を消失するという、電車も含めて大きな被害を受けたが、伊勢神宮は外宮・内宮とも軽微な被害に留まった。神威に守られたかのような神都線であったが、1959年の伊勢湾台風でまたも被害を受けたことが引き金となったか、この頃からバス転換の論議が加速。1961年に残る本線・二見線が廃止され、神都線は姿を消した。
伊勢神宮そのものも、かつての国家神道の総本山から、戦後の価値観の変化によって「伊勢志摩リゾート」の主要目的地の一つへと役割が変わり、伊勢志摩観光における比重も低下した。1955年には国家神道のイメージが強く、伊勢神宮の門前町二つの名をそのまま冠していた「宇治山田市」を「伊勢市」へ改称したことは、この流れを象徴していると言えるだろう。1966年にジャスコ伊勢店が開店し、追って1969年には三交百貨店が開店し、伊勢市駅前を二つの大型小売店が囲むようになった。伊勢神宮が小さくなったり移動したわけではないので、「神都」であることに変わりはなかったが、鳥居前町の宇治山田でさえも、もはや伊勢地域の中心都市という役割の方が強まっていたのである。
神都線が姿を消した1961年とは、ちょうどモータリゼーションが到来した時期にあたる。1964年にかつて朝熊線が目指した朝熊山へ有料道路・伊勢志摩スカイラインが開通し、翌1965年には志摩方面へ向かう有料道路・伊勢道路(現在は無料)が開通した。これら有料道路の開通と神都線の廃止によって、伊勢志摩を周遊する観光客の流れは、三重交通バスが担うことになった。当時は近鉄線が宇治山田止まりであったこともあり、宇治山田より先の鳥羽・志摩方面へは、神都線と同じ三重交通によるバスが連絡していた。宇治山田まで近鉄特急、そこから三重交通バスという観光客の流れにあって、伊勢神宮周辺のみを走る三重交通神都線は、もはや観光客の流れにそぐわない面があったのかもしれない。
しかしながらモータリゼーション一辺倒というわけでもなく、1969年には近鉄鳥羽線が開通。宇治山田止まりであった近鉄線と、近鉄でありながら離れ小島であった志摩線(鳥羽~賢島)が結ばれ、大阪・京都・名古屋から伊勢志摩を巡る鉄道網が整備された。1970年の大阪万博開催を控え、大阪都心でも難波線が開通するなど、近鉄各線では大型投資が相次いでいた時期であった。大阪万博で大阪・京都を訪れた観光客が、難波線・鳥羽線の開通によって伊勢志摩へ周遊する効果をもたらした。
また、鳥羽線の開通によって、かつての神都線本線・楠部駅の至近に五十鈴川(内宮前)駅、朝熊線・朝熊村駅の至近に朝熊駅が開業した。かつての神都線が担った役割の一部を、鳥羽線が再び担うことになったのは、偶然ではないだろう。これら近鉄による伊勢志摩リゾート開発は、1994年の志摩スペイン村のオープンで集大成を迎えることとなり、今日に至るのである。
・外宮鳥居前:山田を歩く
以上が外宮・内宮を中心とした宇治山田市街の交通の概略である。前置きが長くなったが、伊勢市駅前から出発し、外宮→内宮の順に参拝することにする。伊勢市駅に着いたのが13時過ぎであったため、初日は外宮のみ参拝、翌日に内宮の参拝という行程になった。
伊勢市駅前バスターミナル。左の旅館がかつてジャスコ伊勢店、右の三交インがかつて三交百貨店伊勢店であった
外宮前経由内宮前行きは【51】徴古館前経由、【55】庁舎前経由合わせて日中10分間隔ときわめて頻発
伊勢市駅前の鳥居。外宮まで徒歩6分(夜に撮影)。学習塾や銀行が建ち並ぶ、意外と「普通の駅前」である
外宮最寄りの伊勢市駅周辺を「山田」という。これに対し内宮周辺を「宇治」といい、両者を合わせた地名が「宇治山田」というわけだ。先ほども触れたが、1955年までは「宇治山田市」であったわけで、近鉄宇治山田駅をはじめ銀行支店など、今でも宇治山田を名乗る施設は多い。宇治と山田は近接しているものの、鉄道駅が多数立地するために外来の者が多く、商工業の中心地としての機能も担う山田と、鉄道駅や高速道路などから離れ、内宮鳥居前町の機能にほぼ特化する宇治とでは気質が違うという。そのあたりも、今回じっくり観察してみようと思う。
その山田の玄関口、伊勢市駅から外宮鳥居前までは、駅前の表参道をまっすぐ歩くこと6分ほど。しかしながら、90年代までジャスコ伊勢店(現在は郊外に移転)と三交百貨店伊勢店(閉店)が駅前を囲んでいたように、伊勢市駅前は鳥居前町というよりも、伊勢地域の商業地区の役割も強いためか、思ったより鳥居前町の色は濃くない。駅前のバスターミナルを渡ると何の変哲もない学習塾だったり、銀行の支店だったり。それでも表参道をしばらく歩くと、民芸品店や洒落た喫茶店が散見されるのは、観光地らしい。ただ、表参道の賑やかさだけであれば出雲大社や太宰府、宮島の方がよほど賑わっていて、「日本一の神社前」の鳥居前とは思えない。この理由は、後ほど触れることにしたい。
小さな橋を渡るといよいよ外宮
正式名称「豊受大神宮(とようけだいじんぐう)」
伊勢神宮の鳥居は意外にも簡素なもの。20年ごとの式年遷宮で新しくすることもあるだろう
前回の式年遷宮まで宮が建っていた、その名も「古殿地(こでんち)」
本殿は拝殿から更に奥にあり、一般人は直接見ることはできない
本殿・拝殿を囲む板垣。式年遷宮から数年なのでまだ新しい
式年遷宮を紹介する「せんぐう館」に隣接する池の上の舞台。神楽などの舞が奉納される
式年遷宮を経ても池や樹木の佇まいは変わらない
新しいながらも景観に溶け込んだ「せんぐう館」
・競合に敗れて姿を消した・・・「伊勢電気鉄道・大神宮前駅」
はじめて伊勢神宮(外宮)へ参拝し、その後隣接する「せんぐう館」を見学すると、もはや夕方になっていた。
外宮を出てすぐの所に、どっしりとしたNTTの伊勢支店があった。ただ、古い街らしく幅が狭い建物がびっしりと立ち並ぶ中にあって、どうにも立派すぎやしないか。何となく違和感を覚え、近寄ってみた。
外宮のすぐ隣に立派なNTT伊勢志摩ビルが建っている
電電公社時代からのどっしりとした佇まいが印象的だ
NTTの向かいは小さな建物が並ぶ狭い街。しかし、この角を左へ曲がると…
そこはかつての伊勢電気鉄道・大神宮前駅跡地。線路跡らしい緩いカーブが伸びる
そう、いやに広い敷地だと思ったら、そこはかつての伊勢電気鉄道大神宮前駅跡地なのであった。伊勢電気鉄道は、伊勢神宮を目指した3つの鉄道のうち、競争に敗れ廃止された唯一の鉄道である。
伊勢電気鉄道、通称「伊勢電」とは、内陸の亀山を経由していた関西本線に対し、四日市~津を短絡するため、1915年に最初の区間が開通した「伊勢鉄道」を源流とする。大阪から青山峠を越えて伸びてきた大阪資本の参宮急行電鉄(通称『参急』、現・近鉄大阪線・山田線など)に対し、地元・伊勢を発祥とする伊勢電は激しい乗客獲得競争を繰り広げた。参急は伊勢電に対し「参急は伊勢へ、伊勢電は名古屋を目指すことにして、役割を分けたらどうか」と持ち掛けたこともあったが、「伊勢」を社名に冠する伊勢電が「伊勢神宮」を大阪資本に譲るわけにはいかなかったのか、伊勢電はこれを拒否。1930年には逆に参急と同じ山田へと延伸するに至り、津~山田(大神宮前)間で国鉄・参急・伊勢電の3社による熾烈な乗客獲得競争がここに勃発するのである。
しかしながら、伊勢電は大神宮前延伸で資金を使い切ってしまい、名古屋を目前にした桑名から先へ延伸することができなかった。大阪を始発とする参急と違い、伊勢電は大都市を後背地に持たなかったため、乗客数があまり増えなかった。また、独自区間であった四日市~津間と違い、延伸区間の津~大神宮前間は国鉄か参急、あるいは両方と競合する区間であったため、多額の資金を要した割にここでも乗客が増えなかった。短期間で乗客の増えない路線を複数建設したことで伊勢電は経営難に陥り、大神宮前延伸から僅か6年後の1936年、伊勢電は参急に合併されてしまう。伊勢電の独自区間であった江戸橋(津の1つ隣)~桑名は参急に取り込まれ、江戸橋~大神宮前間は「参急伊勢線」として分離された。伊勢電が果たせなかった名古屋延伸は合併2年後の1938年、参急の子会社・関西急行電鉄によって実現する。
その後、暫くは参急のローカル線として存続していたものの、戦時体制の深度化に伴い、1942年に山田線の並行路線と見做された伊勢線新松阪~大神宮前間が廃止。国家神道の隆盛に沸く山田のなかで最も外宮に近い、輝かしいターミナル駅として生まれたものの、1930年の開業から僅か12年、そのうち「伊勢電本線」として特急電車が駆け抜けたのはたった6年という、あまりに短命かつ不運な駅であった。伊勢線として残った江戸橋~新松阪間も1961年の伊勢湾台風によって廃止となり、伊勢電が建設した路線で今も残るのは、近鉄名古屋線江戸橋~桑名間、および神戸(かんべ)支線(現・近鉄鈴鹿線)のみである。
たった12年しか電車が来なかった歴史を静かに語る
・鉄道が日本の発展をリードした時代
1930~1960年にかけての30年間は、戦争を挟み、日本の鉄道が大きく発展した時期にあたる。国鉄各線は戦争遂行のための貨物輸送に沸き、参急や東武日光線など、国威発揚のための観光地を結ぶ電気鉄道が相次いで開通したのがこの時期だ。同時に、沖縄編で紹介した沖縄電気軌道や、今回紹介した神都線、そして伊勢電のように、急激な時代の変化についていけなかった鉄道が姿を消したのもこの時期である。
我が国の発展にとって、鉄道は物心両面で大きな役割を果たしてきた。東京は世界的に見ても鉄道の機能に依存する度合いが高く、都市鉄道は欠くことのできないインフラである。それと同時に、時速285kmで走る高速鉄道が数分間隔で行き交う東海道新幹線に代表されるように、高速鉄道も同様に欠くことのできないインフラである。そして、都市鉄道にとっても、高速鉄道にとっても、その発展の基礎にあるのは、伊勢電、参急、そして近鉄が築き上げてきた、電気鉄道の技術だ。
山々をトンネルで穿ち、平坦地を直線で駆け抜け、都市間を高速で結ぶという、参宮線のように地形に従順な蒸気機関車とは似て非なる電気鉄道の技術が、戦前という早い段階でここまで発展してきたからこそ、戦後の高度経済成長を成し遂げられたと言えるだろう。
また、都市内にきめ細かく駅を設け、待たずに乗れる頻繁運行の「地下鉄」に代表される「電車」。その基礎をつくったのは、神都線のような「小さな電車」たちにある。こうした電車が各地で育ったからこそ、都市内交通としての「電車」が、今日の大量・高速・高頻度化を達成した「都市鉄道」に結実しているのだと思う。
「汽車」と「電車」が肩を並べる伊勢市駅
神都線や伊勢電の跡は、バスや近鉄電車などで容易に辿れる。伊勢を歩く機会があれば、日本の発展を支えながらも消えていった電車たちを偲んでみてはいかがだろう。
(つづく)