早岐駅のスイッチバックと”或る列車”
武雄温泉を出て、ひと山を越えると有田に着く。一つ手前の上有田から有田にかけては有田焼の窯元が立ち並び、窯の煙突がいくつも空へ伸びているのが印象的だ。かつては有田から伊万里の港へ有田焼を輸送するために敷設された松浦鉄道西九州線が分岐し、ホームには有田焼の陶板が展示されている。
上有田で上り普通と交換。「有田陶器市下車駅」の看板が立つ
有田駅から西九州線が分岐。「みだいばし」は西九州線の駅
ホームを彩る有田焼の陶板
有田を出ると三河内(みかわち)を通過し、最後の停車駅・早岐(はいき)駅2番線に到着。ここで特急みどりはスイッチバックのため6分停車。佐世保線は肥前山口〜早岐〜佐世保間のひとつながりの路線ながら、途中の早岐でスイッチバックとなるのは、早岐から分岐する大村線との歴史によるものだ。
佐世保線はもともと長崎本線の一部として、1897年に佐賀─肥前山口─早岐間が開通した。翌1898年に早岐─(大村)─諫早─(長与)─長崎間、および早岐からスイッチバックする形で佐世保への短距離支線が同時に開通し、これが最初に佐世保線を名乗る路線となった。その後、長崎への短絡ルートとして1934年に肥前山口─肥前鹿島─諫早間が開通したことで、こちらが長崎本線を名乗るようになった。長崎本線から分離された区間ののうち、肥前山口─早岐間が早岐─佐世保間と合わせて新たな「佐世保線」となり、残る早岐─大村─諫早間が「大村線」として独立し、現在に至っている。
佐世保線は軍港・佐世保への路線として、海外へ開かれた港町・長崎へ至る長崎本線とほぼ同等の幹線としての扱いを受け、長崎本線と同時期に電化もされた。一方、大村線は広域輸送の機能を失って長崎県内の二大都市を結ぶ地域路線となり、毎時1本の快速「シーサイドライナー」が走るものの、現在に至るまで非電化のまま。ハウステンボスの開園時、真横を走っていた大村線にハウステンボス駅が開業し、早岐─ハウステンボス間の1駅間のみ電化され、博多からの特急が久しぶりに1駅間のみとはいえ大村線を走るようになった。しかし、全線電化には至っていない。
早岐駅は、開業以来佐世保の入り口として、また分岐駅として鉄道の拠点であり続けており、その広大な駅構内を活用して長崎駅高架化に伴う車両基地の移転先となるなど、今なお存在感を保っている。
早岐駅の駅名標。隣駅が複数ある駅名標は分岐駅ならでは
ハウステンボス方へは行き止まりとなっている隣の1番線を見ると、”或る列車”の回送列車が止まっていた。
威風堂々とした佇まいの”或る列車”
元がキハ47とは思えないほど徹底的に手が加えられた車内
“JR KYUSHU SWEET TRAIN”らしく、車内でスイーツを楽しめる
783系特急みどりと並ぶと、そのスタイルの差が際立つ
或る列車とは、明治の鉄道黎明期の九州を走っていた幻の豪華客車。大正・昭和期に入ると戦時輸送最優先となり、普通列車用の客車や事業用車両に改造されるなど、悲運の豪華客車として知られた。愛称もなかったことから鉄道ファンからは「或る列車」として呼ばれ、それが定着したものだ。2015年に「カジュアルに楽しめる”ななつ星”」というコンセプトをもとにJR九州がキハ47を種車として復刻させ、現在長崎─佐世保間や大分─日田間などを走っている。今回はJR九州自慢のこうした観光列車には乗れなかったが、「乗ること自体が目的」となるような観光列車はJR九州が日本をリードする存在であり、いつかは乗ってみたいものと思う。
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「港のまち、佐世保」