会津線が東京と結ばれるまで
「♪上野発の夜行列車降りた時から…」というフレーズはあまりにも有名で、東北への旅はやはり上野駅からでないと、というのも根強い人気を持っているが、僕もそう思う人間の一人ではある。しかし僕の中で、会津に限っては、旅の始発駅は東武線の浅草駅だ。ただ、浅草駅が会津線と結ばれたのは1986年と、比較的近年のこと。
会津線は、江戸時代からの会津西街道(下野街道)に沿うルートである。会津西街道は栃木県に入った今市で五街道の一つ・日光街道に接続し、会津から江戸・日本橋への最短ルートを構成していた。会津藩だけでなく村上藩(新潟)、庄内藩(山形)、米沢藩(山形)などの参勤交代にも利用された、歴史あるルートである。ただ、1899年という早い時期に磐越西線が郡山─会津若松間を結び、東北本線と結ばれたことで、東京と会津を結ぶメインルートは郡山経由に移り、それ以来会津西街道沿線は日陰の道になってしまった。
会津線は、その会津西街道沿いに連なる町々と会津若松を結ぶローカル線として、1927年に(会津若松─)西若松─上三寄(現・芦ノ牧温泉)間7.4kmが開業したのがはじまり。磐越西線に遅れること28年後のことだ。
1年前の1926年に会津若松─西若松─会津坂下間21.6kmが現在のJR只見線として開通しており、この支線としての開通であった。この時は双方とも会津線であったが、会津坂下方面は1971年に只見線へ改称し、以来会津線は西若松が起点となっているものの、会津若松駅への直通は現在まで続いている。
1934年には南会津の中心・会津田島まで延伸し、この時点で会津若松─会津田島間45.1kmが結ばれた。そしてこの頃、会津西街道に沿って鉄道を敷設する「野岩羽線(下野=栃木、岩代=福島、出羽=山形)」構想が起こり、会津線はこの野岩羽線に併呑される形になる。1938年には野岩羽線のうち「岩羽」に相当する喜多方─熱塩間11.6kmが、日中線として開通した。
1947年には会津田島─荒海(現・会津荒海)間7.2km、1953年には荒海─会津滝ノ原(現・会津高原尾瀬口)間8.2kmが開通し、この時点で会津若松─会津滝ノ原間60.5kmが結ばれた。会津滝ノ原駅は福島・栃木県境のすぐ手前に設けられ、ゆくゆくは国鉄日光線の今市駅へ達する予定であった。
しかしながら、これより先の栃木県内は人煙まれな山岳地帯であり、建設の困難も見込まれたため、国鉄の経営悪化に伴って建設は後回しにされた。それでも徐々に工事は進められていたものの、1980年の国鉄再建法施行により工事は完全にストップし、国鉄線としての開業は見込めなくなった。この時点で、東武鬼怒川線とほぼ並行する新藤原─今市間を除き、トンネル・橋梁・路盤は概ね完成していたという。
このため、1981年には栃木・福島両県の出資により野岩鉄道株式会社が設立され、建設中だった野岩羽線の受け皿となることが決まった。さらに沿線の要望を受け、国鉄日光線今市駅でなく東武鬼怒川線新藤原駅への接続とするよう改め、また東武線からの電車を直通運転させられるように電化工事を行った。こうして難産の末、1986年に野岩鉄道野岩線新藤原─会津高原(旧・会津滝ノ原、現・会津高原尾瀬口)間が開通。磐越西線に遅れること実に87年、会津西街道経由の鉄道が遂に完成し、浅草から会津高原まで直通電車が走り始めたというわけだ。
この頃の会津高原─会津若松間はまだ国鉄会津線であり、会津高原駅では浅草からやってきたピカピカの東武線の電車と、薄汚れた国鉄キハ40形が接続する光景が見られた。しかし、1980年の国鉄再建法施行によるローカル線廃止の対象には会津線、そして日中線も含まれており、野岩線は開通するのに肝心の会津線が廃止になる可能性もないではなかった。なお、山形県側の開通が全く見込めなかった日中線は1984年に全線が廃止され、「野岩羽線」が実現することはなかった。
このため、栃木県が絡まない福島県内の区間は福島県による第三セクター鉄道「会津鉄道」が設立されることとなり、1987年にいったんJRに引き継がれたのち、会津鉄道会津線としてのスタートを切った。バブル景気に沸く1990年には会津高原─会津田島間15.4kmが電化され、浅草と南会津の中心地・会津田島が乗り換えなしで結ばれるに至っている。電化区間を西若松・会津若松まで延長する計画もあったというが、バブル崩壊により、それが実現することはなかった。
野岩線開通から2年間、浅草直通電車は料金不要の快速のみで、行楽シーズンには2扉長距離用の東武6050系電車が足りなくなり、通勤用の8000系までもが会津高原直通快速に充てられる始末であったという。その後、1988年には快速に指定席を設けた快速急行「おじか」が会津高原まで直通するようになり、1990年には会津田島電化に伴って延長されるものの、特急列車の運行はなかった。
観光路線でありながら、会津方面は東武にとってほぼ未開であったということもあってか、東武・野岩・会津線ルートには、なかなか特急列車が走らなかった。バブル景気に沸く1990年には東武100系特急「スペーシア」が就役し、約30年後の今に至るまで東武鉄道のフラッグシップの役目を務めているが、スペーシアは東武線内の需要に合わせた6両編成であり、最大4両編成までの野岩線・会津線へは入線できなかった。このため、これを補完すべく、スペーシアの終点である鬼怒川温泉駅で快速会津田島行きと接続するダイヤが組まれていた。
なお、1991年からは急行「南会津」が運行されていたが、スピードは特急スペーシア〜快速会津田島行きの乗り継ぎとあまり変わらず、また豪華な特急スペーシアに対し、急行南会津はリクライニングできない固定シートであり設備も劣る…とあっては中途半端さは否めず、2005年に廃止されている。
このため、会津田島直通の役目は長らく料金不要の快速が担い続けた。快速は6050系2両×3本を繋いだ6両で浅草を出発し、日光線と鬼怒川線(〜野岩線〜会津線)が分岐する下今市で切り離し、前4両の会津田島行きと、後ろ2両の東武日光行きに分かれて発車。会津田島行きは東武線と野岩線の境目となる新藤原などでさらに2両を切り離すこともあり、浅草を出る時は6両でも、終点に着く頃には2両になるという、変化に富んだ列車であった。
スペーシア登場の1990年当時は日光観光が低調であり、ダイヤもそれを反映して特急のほぼ全てが鬼怒川温泉行きとされ、東武日光へは下今市で普通・快速に乗り換えという体制が長らく続いた。このため、会津田島方面のみならず東武日光へも直通列車はほぼ快速のみであり、特急料金不要かつ目的地まで乗り換えなしで結ぶ快速は、長らく行楽客に親しまれる存在であった。
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「快速から特急”リバティ会津”へ」