関東

【千葉】流山の歴史と流転を眺めて──流鉄流山線 #61

流山市内を歩きながら、流山線を取り巻く状況を考えてみよう。

流山市立博物館で歴史に触れる

山線流山駅に降り立ち、まず向かったのは流山市立博物館。ここを第一の目的地に据えたのは、よそ者にはいまいち分かりにくい「アメーバ都市」流山の成立過程を、整理してから流山を歩きたいと思ったからだ。

いかにも地方私鉄らしい流山駅を出て、線路沿いにしばらく歩く。流山線は流山駅で終点だが、流山駅の先に車両基地が隣接しており、線路も車両基地へと続いている。

車両基地は豊四季・柏方面への県道278号に突き当たって終わる。しかし、県道を越えた先へも線路幅程度の小道が続いており、何だか意味深。川側は住宅が立ち並ぶが、反対側はすぐ山で、いかにも山を切り崩して無理矢理通したような道だ。

特にこの道についての説明があるわけではないが、おそらくはかつて流鉄が計画した江戸川台・野田方面への延伸に備えての線路用地だったのではないだろうか。なお、江戸川台方面への延伸については後述する。

流山駅から徒歩7分で流山市立博物館に至る。駅付近から続く小山に沿った傾斜地に建っているため、エントランスへは外階段を上らなければならない。川のすぐ近くながら起伏に富んだ地形になっているのは、やはり川が幾筋にも分かれ、それぞれの川の侵食によって台地を削ってきた千葉らしいところ。

流山市立博物館は流山市立中央図書館との合築で、開館は1978年と、開館30年を迎えたところ。流山市が市政施行したのは1967年であり、まさに流山市が成長途上にあった頃だ。水運・醸造の町から東京のベッドタウンへと町の役割が変わりつつあるなか、新住民が激増していた折、水運・醸造で成長してきた歴史を保存し、新住民へも流山市民としての意識を持ってもらうために開館したのだろう。町の歴史を保存するという意識を町の当事者が持ち、今日まで続いているということに、まずは敬意を払いたい。過去をなかったことにせず、過去があったからこそ現在があるということに想いを致すということは、なかなかできない。

入館料として数百円かかるかと思っていたが、驚くことに無料。市民への啓蒙という役割を考えれば図書館と同じで、実際ここの図書館と博物館は資料を共有するなどして不可分の関係にあるのだが、それでもこれだけの展示を無料としているのには敬服する。

行政直営の博物館だけあって話は先史時代から遡るのだが、ここでは割愛。やはり展示スペースが多く割かれているのは、江戸幕府による利根川東遷事業が完了して以後。銚子─関宿(野田)─流山─行徳(市川)─江戸の水運ルートが確立し、その水運の利を活かした醤油・味醂醸造が発展。そして常磐線・東武野田線・流山線の開通で醤油・味醂の積み出しが鉄道へ取って代わり、戦後はその鉄道網を利用する形で新興住宅地が発展。2005年のTX開通を機に市内3駅では新市街地の開発が進む…というところで、展示は終了していた。

まず印象に残ったのは、利根運河についての展示。利根運河は利根川と江戸川を短絡する8.5kmの運河で、1890年に開通した日本初の西洋式運河。従来は利根川と江戸川が分流する関宿(野田市)まで遡る必要があり、また一部区間に浅瀬があって大型船の航行が不可能という問題点を抱えており、東京─銚子間で約24時間を要した。このため、利根川と江戸川が近接する流山付近を陸路で繋ぐことさえあったという。

しかし、利根運河の開通によって東京から銚子間は18時間に短縮。利根運河の両岸は多数往来する船舶相手の店が立ち並び、船で直接立ち寄れる構造であり、さながら商店街のようであったというから驚く。

運河の開通を機に流山は水運都市としての地位を確立したものの、鉄道の発達とともに水運は衰微してゆき、利根運河の天下は長くなかった。運河の開通から僅か7年後、1897年には総武本線が東京(本所)─銚子間で全線開通し、この間を水運の4分の1以下である4時間で結んだ。このため、利根運河が運河として機能したのは1890年の開通から僅か20年程度で、戦前の段階で運河を利用する船はほぼ無くなっていたという。

現在でも船舶の出入りが多数ある京浜運河と違い、今となっては利根運河を利用する船はない。船舶の航行がなくなってからは、観光地への転身が図られた。1911年には東武野田線の開通と同時に運河駅が開設され、アクセスも向上。この頃には運河開通と同時に整備された桜並木もこ成長しており、西洋式の水門が構える日本離れした景色と相俟って、東京近郊の気軽な行楽地となっていったという。

現在でもその水量に比べて河川敷や土手は大規模なもので、名だたる大運河であった面影を残している。それにしても、物流の根幹を成すべく建設された運河がたった20年程度しか機能しなかったとは…。この時代の変化のスピードの激しさがどれほど猛烈なものであったかがわかろうかというものだ。

次いで興味を惹かれたのは、鉄道に関する展示の充実ぶり。常磐線のルートから外れ、危機感を強めた流山の人々が資金を出し合って流山軽便鉄道を設立したということが、当時の資料そのままに感じることができた。

また、昔の鉄道ばかりでなく、地下鉄千代田線(1971年に常磐線各駅停車と相互直通運転を開始)や武蔵野線(1973年開通)、TX(2005年開通)といった、現在の流山市に深く関わる鉄道についての展示も充実していた。

特に千代田線は、直通運転する常磐線各駅停車を含めても市内に停車駅はない。しかし、馬橋で流山線に接続するほか、市内でも松ヶ丘住宅など常磐線各駅停車南柏駅を最寄りとする地域もあるため、市の発展と不可分の関係にあるということで、その思い入れの強さを展示の内容からも感じられた。市内に駅すらない鉄道の展示を堂々とするあたり、違和感を覚えなくもないが、こうした歴史に想いを馳せれば、その背景にも納得する。

新興住宅地としての発展で最も展示スペースが割かれていたのは、江戸川台住宅に関してであった。江戸川台は東武野田線江戸川台駅を最寄りとして発展した新興住宅地で、駅ができたのは1958年と、公団常盤平団地(松戸市、1959年入居開始)などと並び、戦後東京近郊の新興住宅地としては最先発の部類に入る。

集合団地を中心とした公団と違い、千葉県住宅協会主導で建設された江戸川台は戸建住宅で構成されており、田園調布を参考にしたと言われる街並みは、今でも瀟洒な雰囲気を保っている。この江戸川台の成功を経て、流山平和台(1964年入居開始)の開発へと繋がってゆくのである。それだけに、市としても思い入れのある住宅地なのだろう。

博物館に隣接した図書館へも少し立ち寄り、流山に関連した資料も少し読んだ。やや古かったが松ヶ丘住宅に関する「千葉・流山 松ヶ丘物語(小出鐸男著)」、「総武流山電鉄の話「町民鉄道」の60年(北野道彦著)」を手に取った。松ヶ丘住宅への入居当時は南柏駅への道路が未舗装で、長靴を履いて家を出て、南柏駅で革靴に履き替えて都心へ通勤した…とか、流山線は3両編成でも混雑するから流鉄は儲かっているに違いなく複線化して乗客へ利益を還元するべき…とか、今となっては時代の変化を感じる表現もあった。

しかし、それを含めて歴史を感じるのが、こうした古い資料に触れる醍醐味でもある。水運・醸造の町から東京のベッドタウンへと役割を変え、今後はTX開通に伴う新市街の整備で、ますますベッドタウンとしての機能の充実に磨きをかける流山の歴史に、しばし想いを馳せた。

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「流山本町を歩く」

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