関東

【茨城】”関東の大阪”下館を歩く──関東鉄道常総線(2) #41

ピカピカの黒御影石に刻まれた「筑西市」の文字と、いささか古びた「筑西市役所」のコンクリート建築。対照的な両者の姿であるが、実は両方とも役目を終え、静かに最期の時を待つ運命なのだった。

▲立派な筑西市章の脇で淡々と市役所移転を伝える立て看板が寒々しい

“関東の大阪”下館を歩く

茨城県筑西市。かつて、ここは下館市といった。古くは下館城の城下町として、そして近代は水運をはじめとする物流の集散地として下館は大いに栄え、”関東の大阪”の異名をとった。その後、鉄道の時代の到来と共に水運は衰微。東北本線のルートからも外れた下館は茨城県西のいち地方都市となったが、それでも下館駅にはJR水戸線に加えて関東鉄道常総線と真岡鐵道もおかてつどう線が乗り入れ、下館駅を中心として十字に線路が伸びており、地域の交通ネットワークの要の位置を占めている。

茨城県は、県都・水戸ですら私鉄(茨城交通水浜すいひん線、茨城線など)が軒並み廃止されるなど、クルマ社会の真っ只中。全県を見通しても、JR線の他は行政の息のかかった第三セクター鉄道ばかりで、純民間資本の私鉄は関東鉄道の2路線しかない。かつて同じ関東鉄道だった筑波鉄道筑波線(土浦─筑波つくば─岩瀬)、鹿島鉄道線(石岡─鉾田ほこた)はとうに廃止され、県北の日立市と常陸太田市を結んだ日立電鉄線(鮎川あゆかわ大甕おおみか常北太田じょうほくおおた)も既に廃止。民間会社の運営で残っていたみなと線(勝田かつた那珂湊なかみなと阿字ヶ浦あじがうら)も赤字が祟って茨城交通から切り離され、第三セクターのひたちなか海浜鉄道に転換された。その他、県内を走る鹿島臨海鉄道大洗鹿島線は旧国鉄の未成線を引き継いだ第三セクター鉄道だし、今をときめくつくばエクスプレスも第三セクター鉄道の一種。常総線の終点・下館を起点とし、一部が茨城県内を走る真岡鐵道線も、旧国鉄真岡線を地元が引き受けた第三セクター鉄道である。

つくばエクスプレスの開通を除くと、茨城県は鉄道網の衰退が他の北関東二県に比べて激しい。なにせ、茨城空港開港前の航空自衛隊百里基地へと航空燃料を運ぶ貨物列車が走っていて、空港ターミナルの5km南を走っていた鹿島鉄道線が、茨城空港の開港を待たずに廃止されるほど。空港アクセス鉄道になりえた「かしてつ」がむざむざ廃止され、かしてつ亡き後には圏央道の整備が進んでいる。公共交通機関不毛の地と言っても過言ではないほど、猛烈にクルマ社会が浸透した場所なのだ。

そんな厳しい環境にあって、下館に乗り入れるどの路線も廃止されることなく生きながらえているのは、やはり下館の街にそれ相応の求心力があったからだろう。「下館」の名は平安時代中期・940年、平将門平定のため、下野押領使(今でいう軍事・警察)の藤原秀郷が、下野国に上館・中館・下館の拠点を設けたのがはじまりと言われる。それから一千年以上にわたり、下館はこの地域の拠点であり続けた。江戸時代には耕作だけでなく近隣の真岡木綿(栃木県真岡市)や結城紬(茨城県結城市)といった綿製品の集散地ともなった。明治になり水戸線・真岡線・そして常総線の開通によって鉄道の拠点ともなった下館は相変わらずの繁栄を続けたが、新幹線・高速道路などの高速交通網から外れてしまったことが災いしてか、近頃は御多分に漏れず、中心市街地の衰退が続いてしまっている。

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下館サティ改め「筑西市役所」

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