関西

【兵庫】関西の奥座敷・有馬温泉を目指した鉄道たち(2)──神戸電鉄有馬・三田線 #38

新開地ターミナルいまむかし

谷上を出ると、山の稜線を回り込むようにして下り勾配を辿ってゆく。山の街駅の手前では線路が下り勾配な上にほぼ完全な180度カーブを描いており、神戸電鉄の線路条件の厳しさを実感する。たしかに、こんな勾配ではとても有馬温泉へ蒸気機関車が到達することなど叶わなかっただろう。

しかし、北鈴蘭台を経て、粟生線が合流してくる鈴蘭台に到着すると、そこはもう歴史を重ねたニュータウンの景色が広がっていた。2面4線のホームには乗客が多く立ち、乗り換えの動きも活発だ。粟生線は乗客の減少により、鈴蘭台から僅か2駅先の西鈴蘭台以遠は、日中は1時間1〜2本にまで減便されてしまったが、そうは思えないほど鈴蘭台の下りホームは賑わっていた。このように利用がないわけではないのだろうが、都市鉄道として成立するラインを割り込んでいるために、「利用がないわけではない鉄道が存廃の危機に立たされている」状況が見て取れた。

その鈴蘭台で座席は八割方埋まり、次はもう六甲山を降りきった、神戸市街地の湊川。11分にわたり無停車で、車内は静かな時が流れる。

湊川でパラパラと乗客を降ろすと、ここから0.4kmは神戸高速鉄道線に入り、終点の新開地に到着。神戸電鉄の元来のターミナルは湊川であったところ、同じくターミナルが分散していた阪急・阪神・山陽電鉄と乗り換えをしやすくするため、神戸高速鉄道線の建設によってそれらがドッキングしたのが、新開地駅というわけだ。

有馬温泉から38分、19:46に新開地へ到着すると、18メートル3扉車の4両編成とはいえ、一斉に乗客が降り立ち、ささやかながら活気ある駅の景色が広がった。入れ替わりに三田行きが出発していき、まさに活気ある私鉄のターミナル駅といった風情。新開地駅は乗り換えターミナルとなるのを前提に建設されたため、神戸電鉄から阪急・阪神への乗り換えは、階段をひとつ降りるだけという便利さ。1〜2分もあれば乗り換えられるだろう。

今となっては、神戸の中心・三宮からやや外れた立地となってしまった新開地。新開地の名は「湊川」を埋め立てた後にできた市街地という意味合いであり、港町ゆえ海側に固まっていた市街地が、内陸側へと広がってゆくさなかに誕生した街だった。神戸市役所もかつてはこのあたりにあり、近隣に位置するJRの駅もずばり「神戸駅」。かつての新開地は映画館や芝居小屋が建ち並ぶ、エンターテイメントシティだったのであり、映画評論家の故・淀川長治氏も、幼少期は新開地の映画館で映画に親しんでいたという。

しかし、1957年に神戸市役所が三宮へ移転すると、三宮は新たな神戸の中心として発展を遂げていった。1968年に神戸高速鉄道線が開通し、新開地で阪急・阪神・山陽電車と神鉄がドッキングすると、新開地は鉄道の拠点としても賑わうようになったが、その賑わいは戦前ほどには及ばなかった。1981年に神戸の新たな人口と商業の重心・ポートアイランドが造成され、「ポーアイ」の発展が始まると、三宮はポーアイの入り口となったこともあって、その発展は加速してゆく。それと引き換えに、新開地はかつての繁栄を失っていった。現在でも、歴史ある歓楽街ゆえに、レトロ路線で街を盛り立てようとする試みはあるが、なかなか奏功しているとは言い難い。

今の姿だけを見ると、なぜここを神鉄がターミナルとしているのかを理解するのは難しい。しかし、街の中心の移動という劇的なエポックを挟んでみると、納得いく経緯が理解できよう。街の中心は、時代とともに移りゆくものであるということを、新開地は今に伝えている。

かつては、自らが「新しく開かれた地」であったのだから。

(つづく)

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