ディズニーの街・浦安市。そのディズニーのために生まれ、今は地元・浦安のために走るのが東京ベイシティ交通バスだ。今回は、そのベイシティバスの基幹路線が走る「シンボルロード」と、現在に至るまでのベイシティバスの活躍に触れてみることとしよう。
浦安市の背骨”シンボルロード”
浦安市の地図を見てみると、都市軸と言うべき道路が二つある。一つは南西部から北東部にかけて市域を縦断する首都高速湾岸線・国道357号「東京湾岸道路」、そしてもう一つが北東部から市域の南東端に至る千葉県道242号浦安停車場線「やなぎ通り」〜「シンボルロード」に至るルートだ。
浦安市の定義では、東京都心へ至る葛西橋通りから繋がる浦安橋から浦安ICを越えてすぐ先の「美浜」交差点までを「やなぎ通り」、美浜交差点からJR京葉線新浦安駅を経て終端・総合公園までを「シンボルロード」としている。しかしながら、浦安橋から総合公園までは道路の規格こそ異なるものの一続きの通りであり、両者を区別することは少ない。よって、本稿では浦安橋から先の全区間を「シンボルロード」と呼ぶこととする。
シンボルロードと東京湾岸道路は首都高速湾岸線・浦安ICで直交しているが、ここは全国でも珍しいクローバー型のフルインターチェンジとして有名だ。この浦安ICが浦安市全体の重心のような場所でもあり、浦安市役所もこの浦安ICから程近い猫実に位置している。ただ、鉄道駅からはやや遠く、市内の鉄道3駅(東西線浦安駅・京葉線舞浜駅・京葉線新浦安駅)からはどこも徒歩20分程度を要する。
このため、市役所へのアクセスは市内一円にネットワークを張る、東京ベイシティ交通の路線バスがメインである。どこの駅へも遠いのだが、言い換えればどれか1つの駅前が「役所前町」になることがなく、均等な距離感を保っている。後述するが、浦安市は元町地区・中町地区・新町地区の3地区に区分され、それぞれの融和が市政運営の課題にもなっている。
市役所はギリギリ元町地区(猫実)に位置するが、道路一本挟んだ向かいは中町地区(海楽)であり、シンボルロードからすぐ近くなので、海側の新町地区へも便利な場所にあるという、極めて政治的にバランスの取れた立地にあると言える。
こうした新開地においては、旧市街地に役所をはじめとした公共施設が残り続け、人口の上で多数となったニュータウンの住民が不便を被るという例が少なくない。同じ千葉県内でも、千葉ニュータウンを擁する印西市は、北総線千葉ニュータウン中央駅周辺をはじめとするニュータウン地域が大きく発展し、重心が完全にニュータウン地域へ移ったにもかかわらず、市役所が旧市街地であるJR成田線木下駅付近にいまだ残っている。千葉ニュータウン中央駅と木下駅は約5km離れており、両者を結ぶバス(ちばレインボーバス神崎線)は約1時間に1本という状況からも、千葉ニュータウンと木下地区の交流の乏しさがわかるだろう。
印西市の例に比べれば、浦安市役所の立地は均等に不便ではあるが、ニュータウンと旧市街地、両者のバランスをうまく取った立地といえる。言い換えれば、ニュータウンと旧市街地の融和が、浦安市にとってどれほど難しい課題であったかを象徴しているとも言えるだろう。
さて、その融和の象徴ともなっているのが、このシンボルロードである。歴史も経緯も異にする浦安市の3地区、元町地区・中町地区・新町地区をすべてシンボルロードが貫いており、「市民間の融和」に貢献する道路であるからだ。
詳細については前々回記事( 【千葉】“かつてここは、豊饒の海だった“東京ディズニーリゾート開発前史:浦安物語──東京メトロ東西線・JR京葉線 #80 )・前回記事( 【千葉】“東京ディズニーリゾートを造った二人の男“夢と魔法の王国を日本へ…浦安物語(2)── #81 )をご参照いただきたいが、旧市街地であり漁師町の風情を残す元町地区と、漁業権放棄後に造成された埋立地である中町地区・新町地区では、住民の気質も、街の在り方も、だいぶ異なる。その生い立ちが異なる街をいかに繋ぎ、一体感を醸成するか、当時の都市計画の担当者は大いに悩んだはずだ。
埋立前、浦安橋から繋がるメインルートは、浦安橋からやや南に外れた堀江フラワー通り(旧・一番通り)か、それと並行する境川の両岸に設けられた道路だった。このため、浦安橋を渡るとすぐ直角カーブで右へ曲がり、また直角で左へ曲がって一番通りへ入り、これが海際まで続くという、なんとも自動車向きではないメインルートだった。境川沿いを外れるとあとはもう農地か漁業用地が広がるばかりで、境川沿いがほぼ唯一の人の流れだったと言ってもいい。
しかし、境川沿いは道幅が狭く、木造家屋が密集していたということもあり、これを立ち退かせて道路を拡幅するというのには無理が多すぎた。このため、境川の北側に、境川と概ね並行する大通りが敷かれた。浦安橋の近くで二度の直角カーブをしていたのを改め、浦安橋から東西線浦安駅を経てまっすぐ繋がるルートになった。これがシンボルロードの原型となる。東西線開通の2年前、1967年の航空写真を見ると、浦安駅付近がまだ区画整理中だが、シンボルロードの原型が姿を現している。
5年後、1972年の航空写真では第1期の埋立工事がほぼ終わり、中町地区の開発が始まっている。元町地区で途切れていたシンボルロードも、現在のJR新浦安駅の先まで伸びている。
その9年後、1981年の航空写真では沖合の埋立工事が完了し、シンボルロードも現在の終点、総合公園まで整備された。
現在のシンボルロードは、昼間でも全区間にわたり東京ベイシティ交通バスが10分間隔程度で運行される、文字通り浦安市の背骨として機能している。新浦安駅を跨ぐバスは少なく、多くは新浦安駅をターミナルとして分割されている。しかし、毎時3本程度は新浦安駅を跨いで運行され、「海楽」バス停を最寄りとする浦安市役所へのアクセスにも配慮されている。
シンボルロードの中でも沖合へ開発された大規模マンション群への輸送を担う新浦安駅〜総合公園間の需要は高く、昼間でもほぼシンボルロードを縦貫する【11】シンボルロード線はほぼ10分間隔で運行される。特に新浦安駅から1.2kmのニューコースト新浦安(旧イトーヨーカドー新浦安店)前にあたる「海風の街」までは毎時10本以上のバスが走り、日中でも待たずに乗れるほどだ。最終バスも京葉線の終電2本前、東京0:05発各停蘇我行き(この後0:22、0:35まで電車はある)まで接続しており、深夜でもバスの乗客は多い。
浦安橋から浦安駅を経て、元町地区、中町地区、浦安インター、そして新浦安駅、新町地区へ一直線に続くシンボルロード。この沿線に鉄道駅、市役所、文化会館、そして大型ショッピングセンターなど、浦安市の都市機能の多くが集積しており、それらを東京ベイシティ交通バスが結ぶさまは、まさに浦安市のシンボル。
近年は元町地区でも再開発が始まりつつあり、浦安駅近くにあった「浦安魚市場」が2019年3月、65年の歴史に幕を下ろすなど、元・漁師町の名残は薄れつつある。それでも、元町地区に残る船宿や、佃煮屋、天ぷら料理屋などには、漁業権放棄から約50年を経て、今なお漁師町の風情が残っている。
その元・漁師町の歴史を活かしつつ、浦安市は東京近郊のベッドタウンとして、見事な変貌を遂げた。元漁師の地元民と、埋立地へやってきた新住民の融和も、当初こそ課題であったものの、50年の歴史を経て壁は薄れつつある。3地区をつなぐシンボルロードの在り方は、市民間の融和のシンボルであるのかもしれない。
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TDRと二人三脚…東京ベイシティ交通バス