九州・沖縄

【沖縄】西表島の秘境-船浮への入口、白浜港へ──西表島交通バス #71

廃村に次ぐ廃村…離島の困難

白浜から先にある船浮、網取あみとり崎山さきやま鹿川かのかわといった集落を、俗に「奥西表」という。白浜から船浮までは3.5kmほどであるが、この間には船浮湾が大きく切れ込んでおり、沿岸に橋を架けながら道路を通したとすると9km、さらにその先の網取までとなると17kmもの道のりとなり、とても道路を通すまでの意義はないだろう。

現に、奥西表の集落のうち、最も白浜に近い船浮以外は全て廃村となっており、網取は1971年、崎山は1948年、鹿川は1901年という早い時期に廃村になっている。明治時代に廃村になっている鹿川はともかく、奥西表で戦後に廃村が相次いだのは、なにも沖縄に限った話ではなく、薩南諸島や伊豆諸島など、他の二次離島、三次離島と時期を同じくしている。なかには集団離島という選択をし、無人島になってしまったところもある(鹿児島県吐噶喇トカラ列島:臥蛇がじゃ島・1970年、東京都伊豆諸島:八丈小島はちじょうこじま、1969年など)。西表島でも、歩いて渡れる離島であった由布ゆぶ島が、やはり1971年に一部世帯を除き集団離島している。

こうした時期に廃村が相次いだのは、交通の困難、通信の困難、教育の困難といった数々の不足要因が、生活レベルの向上に際し、顕著な阻害要因となってしまったからであろう。今でも根本は変わっていないが、こうした地域には小中学校しか存在せず、高校以上への進学には島を出なければならない。八丈小島の全員離島に際しても、過疎化、インフラの不足と並び、教育の困難が挙げられているのである。

石垣市内の八重山高校には、こうした離島出身者のための寮があり、一般の公立高校としては非常に珍しい施設と言える。ただ、いくら寮があるとはいえ、子どもの高校進学を機に竹富町を離れる世帯は少なくないようで、竹富町としても悩みの種であるもよう。離島での教育の難しさは、集団離島が相次いだ時代から50年を経ても、問題の根が変わったわけではないようだ。

***

どのように船浮訪問の行程を組むか非常に悩んだが、行きはバス・定期船の時間に合わせ、帰りは15分差でバスに間に合わない定期船でなく、バスに間に合うようにチャーター船をお願いすることにした。

行程を決めたのが船浮訪問の前日であり、夕食の対応が終わっていそうな時間に電話をかけたが、繋がらなかった。「留守番電話を入れてもらえれば折り返します」とのことで、白浜12:40発の路線バスへ間に合うようにチャーター船を出してもらえないかと吹き込み、電話を切った。

その晩の折り返しはなく、やや不安を覚えながら床に就いたが、心配しても仕方がない。まあなんとかなるだろう、ダメならダメで別の方法を考えれば良い、と割り切ることにした。東京からはるか2,000km離れ、考え方もだいぶ沖縄に染まってきたようだ。

次回は、いよいよ船浮へ訪問。

(つづく)

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