関東

【千葉】”かつてここは、豊饒の海だった”東京ディズニーリゾート開発前史:浦安物語──東京メトロ東西線・JR京葉線 #80

漁師町を今に伝える浦安元町

現在の浦安市内は、東西線開通前からの市街地であり、東西線浦安駅周辺の「元町地区」、東西線と京葉線の間に位置し、東西線の開通後に発展した「中町地区」、そして京葉線の南側で、京葉線開通後に発展した「新町地区」の3つに区分される。

▲東西線浦安駅。東京・日本橋まで快速電車で15分という近さ

中町、新町は埋立地にイチから市街地を建設していったため、計画的かつ近代的な街並みが広がっている。一時期「マリナーゼ」などともてはやされた人々が住まうのも、中町か新町のどちらかだ。京葉線舞浜駅北側に広がる戸建の住宅地、舞浜ローズタウンが位置する浦安市舞浜三丁目(中町地区)は、市川市内のお屋敷町を抑え、千葉県内で最も高い地価を度々記録することもしばしばである。

一方、元町はかつての漁師町であったころの面影を、漁業権が放棄されてから50年近く経過してなお色濃く残している。今回、東西線浦安駅近く(元町地区)に位置する古民家と、浦安市役所に隣接する浦安市郷土博物館(中町地区)を訪れ、「ディズニーの街」になる前の浦安を探ることにした。

▲浦安駅前はロータリーが狭いため、浦安駅を発着するバスはすべて道路上での発着を強いられている(浦安駅入口)

東西線浦安駅は旧・当代島村と猫実村の中間に位置し、かつての浦安町で最も賑やかだった「堀江フラワー通り」にも近い。しかしながら、現在の浦安の商業の中心は完全に京葉線新浦安駅へと移っており、浦安駅周辺にはダイエーがあるくらい。

▲浦安駅東方のダイエー。東西線開通まで、ここは京成バスの車庫だった

かつて「一番通り」と呼ばれた堀江フラワー通りは往時の影もなく、高齢者が時折歩くくらいの静かな通りになってしまっている。もはやシャッター通りを通り越し、住宅街へと変貌してしまったようだ。堀江フラワー通りが浦安の一番通りであった時代から50年近く経っているのだから、無理もない。

▲現在の堀江フラワー通り。ところどころに古くからの店があるくらい

もう一つ、元町地区の中心をなしていたのが、浦安市の南東から北西にかけて流れる境川さかいがわである。境川はかつての浦安の漁場と江戸川を結んでおり、江戸川区を東西に流れる新川しんかわ、そして江東区を東西に流れる小名木川おなぎがわを経由し、東京・日本橋までを一直線で結ぶ最短経路を構成していた。浦安で上がった海産物を、大消費地たる日本橋まで最短で運ぶ、文字通りのメインルートであり、生命線とも言える水路であった。

▲河川改修が進んだ境川。かつては無数のベカ舟であふれていた

現在の境川は変哲のない水路でしかないが、かつては境川におびただしい数の漁船が係留され、川に沿って店や家々が立ち並ぶ、メインストリートの様相を呈していた。道でなく川がこのような役割を果たしたところは、ほかに明治時代の利根運河くらいしか聞いたことがない。この時代の浦安にとって、道路よりも川、船の方が交通の主役であったことがよくわかる。

その境川に面して「旧大塚家住宅」、ほぼ隣接して「旧宇田川家住宅」という、2件の古民家が現存している。いずれも浦安駅から徒歩6分ほどであるが、マンションやアパートの類は少なく、古びた一軒家が多い。

▲狭い路地に古びた木造住宅が連なっている。長年にわたり潮風に晒された木材には白く塩が浮いており、環境の厳しさを感じさせる。それにしても、日本橋から電車で15分の町に、こんな景色が残っているとは信じがたい。

このような立地であればもう少しマンション・アパートが増えそうなものだが、元町地区は古くからの住民が多いのか、あまり街の新陳代謝が進んでいないように見受けられる。

▲川に面した旧大塚家住宅。やや豊かな漁民の家であった

行き止まりの路地や、昔のままの区割りが残って曲がりくねった道路も、このあたりには多い。人工的な計画都市である中町や新町のイメージしかないと、田舎町の雰囲気すら漂う元町地区との差に、「まだこんな景色が浦安に残っていたのか」と、驚くばかりだ。

▲堀江フラワー通りに面した旧宇田川家住宅。こちらは商家であった

旧大塚家住宅・旧宇田川家住宅から浦安市郷土博物館へは、境川沿いを歩くこと15分ほど。

▲旧大塚家住宅のあたりの境川は流路が狭く、河川改修が進む前の姿を残している。大きく育った樹木が、重ねた年月の長さを象徴している。

猫実に位置する市役所・郷土博物館は元町地区に属するものの、埋め立て前は海岸線ギリギリであったところで、周囲には比較的新しい住宅が立ち並んでいる。元町地区の中心であった旧大塚家住宅・旧宇田川家住宅からはやや離れていることもあり、街並みは「市役所通り(旧海岸線を転用した道路)」の向かいの中町地区と、そう変わるところはない。

浦安市郷土博物館の名物となっているのが、かつての浦安の中心、境川沿いの景色をそっくりそのまま再現した一角である。

ベカ舟が浮かぶ境川に橋が架かり、川に沿って船宿ふなやど(釣り客のための宿)や漁師料理の店が立ち並び、その奥には漁師の冷えた体を温める銭湯があり、路地では子供らがベーゴマや竹馬遊びに興じている・・・といった、50年前の浦安の景色がそっくりそのまま再現されているのだ。

見ごたえのある屋外展示を見てから館内へ入ると、浦安の漁業を支えたベカ舟や、かつての浦安で水揚げされた海の幸たる魚が飼育されていたりと、漁師町であった頃の浦安を体感できるようになっている。

その後には、黒い水事件や東西線、京葉線の開通を経て、東京のベッドタウンへ生まれ変わってゆく浦安の歩みが紹介されている。黒い水事件を紹介するコーナーでは、当時の映像が公開されており、その緊迫した状況を伺い知ることができる。

400年にわたり続いた漁師町の在り方が根本から揺さぶられ、町の在り方の大転換を余儀なくされた浦安の人々が、どのようにして今の浦安を作り上げていったのかを、深く実感できる。

そして驚くのは、ここまで紹介してきた「旧大塚家住宅」「旧宇田川家住宅」そして「浦安市郷土博物館」のいずれも、入館無料であるということだ。

東西線開通前の人口が19,000人であったのに対し、今や170,000人を超えるとあっては、もはや漁師町時代の浦安を知らない市民の方が圧倒的に多い。そうした中で、これまでの浦安が歩んだ、苦しいながらも豊かな海に支えられた暮らしの在り方を保存し、後世に伝えていかんとする、浦安の人々の思いが、こうした文化施設の充実に結実していると言えるだろう。

▲海に抱かれた浦安市。海と人との近さは変わらない

そして、その維持・発展に際して、「日本一豊かな市」ならではの財政事情が貢献していることは、言うまでもない。今の浦安が豊かであるからこそ、貧しい漁師町であった過去を無かったことにせず、後世へきちんと伝えていくことができるのだ。中町、新町の住民へも、「昔はこうだったけれども、元町の人々の努力があって、今の浦安がある」ことを、知ってもらうために、これら文化施設が存在している。

こうした文化施設の存在が、漁師町の記憶を伝える元町の住民と、人工都市に移り住んできた新住民である中町・新町の住民との融和に貢献している面もある。こうした新興住宅地では、とかく新住民と古くからの住民の分断が起こりやすいのが常であるが、市民の分断は、市域の均衡ある発展の障壁にもなってしまう。今の浦安がそこまで深刻な対立に陥っていないのは、元町と中町・新町の融和に向け、市民一丸となって努力してきた歴史があるからではないかと思う。今の浦安を象徴する、東京ディズニーランドで浦安市の成人式が行われるという事実に、その融和の歴史が結実しているように思うのだ。

* * *

次回は、新たな浦安市を象徴するTDRにスポットを当て、理想の街づくりに挑戦し続けてきた浦安市の歩みを考えていくこととしよう。

(つづく)

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